日本の医療の現実と国民医療費

 今年のお正月、NHKテレビの番組に経済財政担当相の太田弘子氏が出演していました。彼女は、小泉元首相の命を受け、構造改革や郵政民営化に力を発揮した竹中平蔵氏の直系で、彼の後を引き継いで経済財政諮問会議のメンバーになりました。そして、小泉さんの在任中の最後の「骨太の方針06」の中心課題である財政再建、具体的には「2011年度における国・地方のプライマリーバランス(基礎的財政収支)の黒字化」実現に向け、精力的に活動し、歳入・歳出一体改革に取り組み、厳しく歳出削減を実行しようとしています。中でも高齢社会になり、年々増大している社会保障費用を5年間で1.1兆円削減することを一つの柱として、自らの使命を実現しようとしています。

 彼女は番組の中で「日本の医療には無駄が多い。だから、それを減らせば、もっと余裕が生まれるはずで、医療費の総額を増やす必要はない」と発言しました。それに対して、司会者の指名を待っていたのが日本医師会の唐澤 人会長です。しかし、残念ながら、他の出演者の発言が長引き、結局時間切れとなり、唐澤会長は発言することなく番組は終わりました。

 番組を見ていた多くの医療関係者は、切歯扼腕の思いでいたはずです。経済財政諮問会議は過去の経済政策失政のツケを、社会保障財源を削ることで解決しようとしています。強い政治力を駆使し、財政面からの「強力な医療費抑制(削減)政策」を打ち出してきました。医療そのものの技術革新と人口高齢化により、自然に増大する医療費は、主として患者本人、ことに高齢者からの自己負担の増加により賄われてきました。窓口での医療費の支払いが、人によりますが、1割から3割にまで拡大したことは記憶に新しいはずです。それでいて、国全体の医療費の中に含まれる公費負担部分は、図のように増えるどころか、逆に減少しているのです。

 一方、医療現場では、大きな異変が起こっています。病院から勤務する医師が退職し始めたのです。大学から派遣されていた医師が元の大学病院に戻るよう指示を受けて引き上げる例もあります。指示を出すのは、彼らの人事権を握る大学教授です。また、病院医療の現場の厳しさから、開業して診療所を開設する勤務医も急増しました。これには、高度化してきた医療技術に追いつくことによる業務の多忙さ以外に、これまで以上に説明を求められ、安全のための配慮に努め、さまざまな書類を記載し、組織運営に関わる会議や委員会に出席を求められるようになったことも関連していると言われています。こうした業務内容の変化により、時間的なゆとりが無くなり、精神的にも追い詰められたようになるのです。

 さらに、時には患者さんやご家族からのクレームに晒されます。うまく収拾できない場合、医療事故として訴訟の場にも借り出され、慣れない場で辛い体験をすることも起こりえます。少なくなった人員でこれまでよりも多くの複雑化した業務をこなすのですから、残ったメンバーはますます土俵際になります。多くの施設で、診療科の撤退や診療時間の制限、診療内容の限定などが現実に起こるようになりました。それが「医療崩壊」のシナリオです。いつでも、どこでも誰でも、一定のレベルの診療を受けることができるという日本が世界に誇る保険医療の体制は崩れつつあるのです。

 にもかかわらず、財政のことしか見えない担当相は、「無駄がある」と言い放ち、それに、医療者の代表でもある日本医師会の会長が何の抗議もしないままに番組が終わってしまいました。何もコメントが流れない以上、視聴者からすれば、医療に無駄があるという批判的現状認識を認めたことになってしまいます。それが、医療者にとって身もだえするほど悔しいのです。

 もちろんすべての医療機関が、そのような立場にあるわけではありません。しかし、今も、ガタガタと崩壊しそうな地域医療を維持しようと、スタッフが力を合わせ、懸命の努力を続けている病院医療の現場があることも事実です。その仲間からすれば、あまりに実態を知らないコメントですし、失望を感じます。本当は、医師である唐澤会長に現場の人間を代表して、多少の顰蹙を買っても、マイクを奪い取り、医療現場の実態をすぐに大臣に説明する気概を見せて欲しかったと今でも私は思っています。

 2007年版のOECD諸国の医療に関するデータが公開されました。先進諸国の中で日本の医療制度がどのような位置にあるか、見てみましょう(表)。

 日本の医師数(人口千人対)は他国に比して少なく、しかし、どの国よりも回数多く診察しています。そして、病床数は多く、在院日数も長くなっています。つまり絶対数の少ない医師が国際的には多い病床にばらまかれ、しかも、長い入院に対応していることになります。どの要素をとっても医師が多忙になる要因ばかりです。

 医療に人手をかけていないことも反映して、国民総生産に対する医療費の比率はOECD諸国の中でイギリスに抜かれ、最下位となりました。国民一人あたりの医療費も最低です。無駄があるとかないの問題ではなく、先進諸国の中で一番医療にお金をかけていないのが日本なのです。ここでは医師の統計数値しか分かりませんが、看護師などの他の専門職種も同じような傾向だと思います。少ない人数で質を保持してきた日本の医療現場の姿がハッキリと分かります。

 今後、医療および介護のニーズは、ますます増大すると予測されます。小泉元首相が進めてきた医療費抑制政策をこのまま継続することはきわめて危険なことだと思います。今でも、地域によって、診療科目によって、適切なケアが迅速に提供できない事態が発生しつつあります。医療現場における無駄を徹底的に排し、効率よく実践する努力をすることはもちろんですが、全体の枠を拡大することなく良質のケアをこれまでのように享受できることはないと確信しています。

 選択肢は限られています。これまでと同様の国庫補助と保険料、そして個人負担でいけば、医療の質を落とさざるを得ません。他の国のように、いつでも診療を受けることは不可能となるでしょう。専門医の診療は予約のみとなり、急ぐ場合は救急窓口での対応です。もう一つは財源を確保して、アクセスも保持しつつ、質も確保することです。税金か、保険料か、窓口支払いか、どれかを上げる以外の方策はありません。さて、どちらの道を選ぶべきなのでしょうか?

 医療現場からの悲痛な叫びとして、この危機的状況にある医療体制の問題をすべての国民に知っていただき、国民的な議論の中で決断をしていかねばならないと考えています。