太郎を眠らせ、太郎の屋根に雪ふりつむ。
次郎を眠らせ、次郎の屋根に雪ふりつむ。
(三好達治詩集『測量船』から)

 大阪に住んでいても、毎年冬には、ビックリの朝が必ず何日かあります。起きて、部屋の明るさが何となく違うのです。それが外からの光の塩梅のせいだと気付くと、やおらカーテンを開けてみます。一面の銀世界。いつもと全く違う景色に息をのみます。
雪国では、大変な大雪で、積もった雪を下ろす作業に困っておられると聞きます。生活にも不自由を感じるほどの雪国の方にすれば、誠に不謹慎な話しですが、たまにしかない都会での雪の朝、気分は少し昂揚するのです。

 こうした朝、上の詩を思い出します。「太郎、治郎は南極の犬じゃないよ」と精一杯のジョークとともに、高校時代の国語の先生はこの詩を朗読してくれました。本を持ち、甲高い声で読み上げられるこの短い詩がとても印象に残っているのは、先生ご自身がこの詩にかなりの思い入れをお持ちであったせいではないかと懐かしく思い出します。
先日、私の所属する大阪府私立病院協会のニュースに次のような文章を投稿しました。

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【「抜け目のなさ」と「潔さ」】

 センセーショナルな死を遂げた作家の故三島由紀夫が、亡くなる1週間前にある新聞で「日本はなくなって、その代わりに、無機的な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜け目がない或る経済大国が極東の一角に残るのであろう。」と書いているのを読んだ。当時支持する人は少なかった彼の行為の背景に、このような危機意識があったと知って、少し納得のいく気がした。三十数年前に記された彼の予測が、きわめて正確で、的を得ていることにも驚いた。時代を感じ、日本を愛する文学者のとぎすまされた知性があればこそできることなのだろう。

 一方、梅原龍三郎氏をはじめ、高名な画家が描いた自分の肖像画をそっくり美術館に寄贈した人もいる。オールドタイマーには懐かしい高峰秀子さんである。高峰さんは「26年前に女優業を引退、4年前には筆も絶ち、ここ数年は一切人にも会わない。好きなキャラメルをなめ、読書に勤しみ、夫君(映画監督松山善三氏)に手料理を供する毎日だ。」という。11点の絵画の評価額は2億円を超える。取材を受けた彼女は、「人生で一番大切なものは?」と聞かれ、「潔さですね。生きる上での清潔さ」と答えている。

 二人の傑出した人物の言葉や文章が印象に残ったのは、二つの相反する素養のせいである。「抜け目のなさ」と「潔さ」。三島のいう「抜け目のなさ」は確かに今の日本人に目立つ。一つの情報により、一瞬で途方もない金額が動く業界では、それを操作し、自分に有利な展開に持ち込む強引な手法もあるらしい。大きなもうけ口は合法と違法の紙一重の解釈とも重なり、抜け目のない人間が社会から持て囃される時代だ。だからこそ、一方のデコちゃんの一言には、重みがあり、一瞬胸を突かれる思いがするのかもしれない。

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 さて、診療報酬のマイナス改定を控え、ますます厳しい環境にある医療機関経営者にとって、この相反する二つの素養を考えた。「抜け目のなさ」と「潔さ」、いずれに偏ってもうまくなく、結局、両者のバランスが大切なのではないかと思い至った。

 極端な市場原理主義はヘルスケア業界に相応しいはずはなく、経済学者による医療政策決定に対しては「抜け目のなさ」を持って対峙する必要がある反面、組織の経営判断においてはすっぱりとした「潔さ」が求められる時代にも思える。

 とはいっても、三島の知性もデコちゃんの潔さも持ち合わせぬ凡庸な経営者は、結局、目の前の一歩をどのように踏み出すか、それだけに頭を悩ませている。賢明な読者諸兄の奮闘を期待するばかりである。

 私は今の日本は、日本らしさをどんどん失っている気がしています。その国や民族の文化の一番もと、基盤となるのは言語だと言います。日本の現代社会では、まさにその日本語が怪しくなってきています。テレビで若者たちに向けた番組が始まっても、放送の中身もそうですが、多くはカタカナで略語のような判別できない用語が飛び交う会話は、テンポも速くついていけません。好まれる音楽も、ドラマも、今風といわれるものはすべて、西洋社会でも通用するような味わいのものばかりです。本当に日本というものをしみじみと味わうことのできる芸術が少ない気がします。昔ながらの習慣も薄れてきました。第一、お正月がお正月らしくなくなってきましたね。2日にはもうスーパーマーケットが開いていますし、おせち料理が続く毎日はすっかり過去のものとなりました。

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 また、ワープロがあまりに普及したためか、教育プログラムに問題があるのか、私自身を含めて、正確に漢字を書く方が少なくなっている気もします。結局、本当の日本語はどんどん姿を消しつつあるのでしょう。

 こうした傾向を、上の文章でご紹介したように30数年前に三島は危惧し「日本が亡くなって」という表現になったのだろうと想像します。本当に、日本人の根源的なものや本質部分が脆弱化し崩れてしまいつつあるという危機意識を私自身は強く持っています。

 どうすれば、この凋落的な流れに歯止めをかけることができるのか、私は国語の見直しではないかと思っています。冒頭のような短いながら力強く、そして想像力をかき立てる詩の力に大きな期待を寄せています。多くの人がこうした詩を声に出して読んでみて、日本語の美しさを再発見していくことが日本人らしさを取り戻す大きな力になると思っています。皆さんも、日本語の魅力あふれる詩を探してみませんか?

淡くかなしきもののふる
紫陽花いろのもののふる道
母よ 私は知つてゐる
この道は遠く遠くはてしない道
(「乳母車」)