スポーツ少年のケガの対処で思うこと

 以前、最近の子供たちに骨折が増えたのではないかという議論がありました。年寄りたちが「最近の若い者は…」と話すのと同列かもしれませんが、「自分たちの若いときに、そんなに簡単に骨折したかな」というところから、整形外科学会が中心となり大規模な調査まで行われました。結局、昔はそんなに簡単に医療施設を受診し、レントゲンを撮って確実な診断がつくということは少なく、骨折の頻度が増えたというより、統計に載る数が増えたのではないかという結論でした。ただ、骨折が重症化しているということも語られていました。簡単な骨折ではなく複雑なものが増えてきたということです。

 確かに、子供たちの受診は増えているように思います。親だけではなく、時には学校から先生や養護教諭まで同行して受診され、診察室が混み合うことすらあります。

 バスケットボール部でスポーツに取り組んでいる中学1年生の少年が、すねをぶつけたといって来院しました。教室で友人と暴れていて机の角で打ったというのです。心配そうな保護者に連れられてはいましたが、本人は痛そうな表情を見せることもなく、普通に歩いて診察室に入ってきました。打った場所は僅かに変色していますが、押さえてみてもそれほど痛がりませんし、関節の動きなどにはまったく問題がありません。整形外科医の私としてはありふれたというか、たいしたケガではないと判断しました。

 「レントゲンで骨を調べるほどではないと思うが」と話すと親御さんから、「是非撮影して欲しい」と懇願されます。医師としては少年に不要の検査をしたくないのですが、押し切られる形でレントゲンを撮ることになりました。改めて診察室でその写真の説明をして、「何ともなくて良かったね」と帰そうとしたところ、「診断書を書いて欲しい」という要望です。どこに出すかを確認するとクラブの顧問の先生に提出するといいます。医師からの大丈夫クラブをやっても構わないという診断書を持ってこない限り、みんなと一緒に練習に参加させない方針だというのです。

 「要請に従い、レントゲンで検査もしたが、骨には異常はないので、普通の練習に参加できる」という趣旨の診断書を作成しました。その間、本人は退屈そうにしています。

 私の学生時代、多くのスポーツ指導者は、選手が多少の痛みを訴えても練習を休むことを許しませんでした。今となっては危険かもしれませんが、「走って治せ」とか、「ツバを塗っておけ」などというばかりで「大体どこかが痛いなどと言うのは気合いが足りんのじゃ」とそれまでよりも激しい練習をさせられたものでした。それと比べると最近の指導者は子供たちの痛みに敏感です。少しでも異常を訴えると、「病院に行って診てもらってこい」と指示されるようです。どちらがいいのでしょう?

 私も、先ほどの少年に対して、保護者の要請によってレントゲンを撮影しました。何としてでも要らないと突っぱねる方がよいのでしょうか?しかし、心のどこかで、もしも何かあったらどうしようと弱気の計算があったことは否定できません。また、レントゲンが要らない理由を相手に分かるように説明して長い時間をかけるよりも、ハイハイと素直にいうことを聞いて医学的には不要と思う検査をする方が早く流れることも事実です。そして、診療収入からすれば、しないよりもする方が上がることも確実です。

 結局、文句を言われず、早く業務が流れて、しかも、儲かるならと、多くの医師は要求に逆らわず、検査をすることになります。そして、治療となると、本人が痛いという限りはスポーツなどの活動をしないよう指導するでしょう。安静第一の診療です。動いて痛いと言われると困るからです。

 学校の先生もスポーツ指導者もこうした構図で子供たちに接しているように思います。子供たちにというより、保護者に対しての行動かもしれません。「文句を言われたくない」そのために、「自分よりも専門家の判断に委ねたい」「専門家の許可が出るまでやらせない」「何かあってもそれは専門家の指示に従ったのだから私の責任ではない」という流れです。

 安全を重視した姿勢と評価することもできますが、本当に強くなりたいと願っている選手にしてみれば、こうした指導者についていることは不幸です。ある意味で、スポーツとは「無理」をしながら次第に強くなり、またその苦労の中から何かをつかみ取るところに副次的な効果もあるのだと思います。その「無理」を全部否定し、周囲の大人たちが誰も責任を取ろうとせず、尻込みし、ひたすら「安全」に、遠巻きに管理している状況だとすれば、強くなるはずもありませんし、スポーツの意味が全くなくなってしまうように思います。

 それでは、どうすればこの事態を打開できるのでしょうか?

 一つは目的を明らかにすることが第一だと思います。多少のリスクがあってもスポーツというものに人生の意義を感じている人からスポーツを奪う対処をしてはならないでしょう。しかし、健康維持で行っている運動に一定以上のリスクをかけることは得策ではありません。どこに目標があるのかをまずは本人が表明し、周囲がそれを理解することがスタートです。

 二つめはそのリスクを共有することだと思います。本人に知らされないままに痛みを我慢しながら続けさせていく指導者がいるとすれば、それは大きな過ちだと思います。例え幼くても、本人の意思とそして、周囲の大人の理解や知恵が彼らのベストの道を見つける条件になると思います。

 「寝たきりにはなりたくない」そう希望を持っている方が、腰の痛みで近所の診療所を受診しました。起き上がるときには痛くても、起きてしまえば歩ける状態だったのですが、「痛い間はじっとしてなきゃだめだ」と指示されたその方は、日課にしていた散歩を止め、3週間にわたって、ベッドに寝ていました。起き上がるのもやっとの状態になって、これでよいのか不安になり、相談に来られた例も経験しました。「骨折を予防するには寝ているのが一番」というアドバイスを受けて、じっとしていて動けなくなった方もおられます。何が目的で、そのために何をすれば、どのような利点があり、どのようなリスクがあるのか、そこまで十分に理解して対処を決めるべきだと思っています。

 責任をなすりつけ合うような体制からは何も生まれはしないと痛感しています。