「自立する」ということ

 昨年4月から始まった介護保険では、「高齢者の自立を支援する」ということが制度の基本的な考え方として示されています。ここでいう「自立」とは、いったいどのようなものを意味しているのでしょうか? 一般的には、「自立」は、身体的な能力を表現することが多いように思います。たとえば、リハビリテーションでは、食べる、動く、排泄する、洗顔し、髪をとき、着衣を整えるといった日常の生活動作を人の手を借りず自分でできるようにすることが重要な業務となっています。介助を必要としない場合、その人は「日常の行動が自立している」と表現します。

 しかし、自立には、精神的な側面があります。人に頼らず、自分で自分の人生を進んでいく姿勢を持った生き方は「自立した生き方」です。そうした生きていく上での姿勢には、身体的な状況は関係ありません。ですから、身体的に自立していないけれども、精神的に自立した人はたくさんおられることになります。むしろ、障害を持った方が、より精神的強さを感じさせる傾向があると感じるのは私だけでしょうか? つまり、日常生活でよく聞く「自立した女性」とか、「日本人は自立しているだろうか」という場合の「自立」という用語は、身体的なことよりも、精神的なことを意味しているようです。それに比べて、ヘルスケアの領域の人たち、特に、リハビリテーションに関わる人たちが「自立」という用語を使うときには、精神的なことより、身体的なことの比重が増しているように思います。ここでは、身体的な自立ではなく、精神的な自立について考えてみたいと思います。

 「精神的な自立」の反対を意味する言葉は「依存」です。精神的自立というのは、自分のことを自分で決め、そして、その結果について自分で責任を背負うという生活における姿勢だと私は考えています。依存は、自分で決めない代わり、うまくいかないときに不平を漏らし、文句をつけるという行動が代表的な態度ということになるでしょう。
もともと、日本人は「村社会」という風に指摘されるように、ある集団を形成すると、そのリーダーの意見に従い、全体として団体で行動すると言われています。そこでは、個人の考え方を主張することはタブーであり、全体の規律を乱す不届きものとされてきました。そのため、自由な発想や行動は慎むような風潮となり、団体の決定に無条件に従う習慣が身に付いてきました。300年続いた、江戸時代、領主は自分の領地を管理するときの手法は、「知らしむべからず、依らしむべし」でした。「リーダーである自分が君たちにとって一番良いと思う方法を考え実行するのだから、余計なことは心配せず、私を頼り、安心して任せればよろしい」というやり方です。年貢を納めることが義務づけられ、ときには厳しい取り立てにあっても、よほどでない限り抵抗することはありませんでした。集まった年貢は、今では税金ということになるのでしょうが、どのように使われるのか、知らされなくても当たり前で、自分たちには与り知らないことという感覚が育てられたともいえます。「『お上』がいいようにしてくれる」と国民は単純に信じていました。

 こうした関係は、医療においても長く続いています。「お任せ医療」といわれるものです。患者さんの訴えを聞いた医者が、検査などで病気が何であるかを診断します。そして、どのような治療を行うかを考えます。どんな治療とするか医者が自分の判断で決めて実行するのが「お任せ医療」です。私は、スポーツ医学をしていて、その矛盾に気付きました。痛いから「どうしてだろう」と受診したスポーツ選手に、「それは使いすぎだ」という判断をします。そこまでは技術者としての医者の仕事です。しかし、多くの医者はそこから自分の考え方で方針を押しつけます。「スポーツを止めなさい」と指示するのです。それは、選手自身の判断とは異なることがあります。選手は診察室の中では頷いても、大事な試合の前なら、その指示に従うことはありません。

 医師の指示を無視して出場して、前よりも痛くなったとします。それを、医者に文句言うでしょうか? かわいそうに自分の判断で出場した以上、誰にも文句は言えません。これでは、医師が何の役割を果たしているか、さっぱりと見えてきません。「痛いなら、止めろ」と自分の価値観を押しつけただけです。そして、結果的に、無理をして、傷んでしまった選手を守ることになっていません。医療スタッフというのは、患者さんの肉体的な情報と、そこから引き出される診断やいくつかの治療方法については、すべてお話しすることが義務づけられると思います。しかし、その中から何を選び、最終的にどういう治療方針とするかは、患者さんが中心となって決定していくべきものではないかと思うのです。医療スタッフは、ご本人が事態を正しく把握しているかを確認し、自己決定をすることを支援することが仕事ということになります。

 自己決定というのは、簡単なことではありません。しかし、悩んだ挙げ句、「自分はこうすることに決めました」という自立した生き方に触れると、責任を自分で持ちながら、決断をするという潔さにすがすがしい気持ちになることがあります。私の仕事の中では、人工関節をするかどうか悩んでいた高年男性のことを思い出します。誰でも怖くて、できれば避けたい手術です。しかし、一方では、膝はいうことを聞いてくれませんし、一日中痛みます。毎日が暗く、家に閉じこもりがちで、楽しみなど何もありません。孫からの温泉の誘いを機会に、彼は手術を決意します。今では、元気に毎日グランドゴルフを楽しんでおられます。おじぃちゃんの意志を尊重し、支えたご家族も、よかったと喜んでおられます。

 こうした自立した精神による自己決定は、欧米の個人主義という元では、育ちやすいのは確かでしょう。しかし、歴史の浅い我が国では、自己主張はして、自分の意志での決定でなければ、文句を言うくせに、結果がうまくいかないとまた周囲のせいにするというまことに自分勝手な風潮もあるように思います。

 では、どうすれば、自立した精神を育むことができるのでしょうか?それは、信頼関係に基づく人間関係ではないかと思います。お任せ医療ではなく、個人の価値観、人生観を反映した診療を実施するには、医師が患者さんを、そして、患者さんが医師を信頼しなければなりません。不親切に情報を放り出して、後はあんたが決めればよろしいというのが、インフォームドコンセントだと誤った認識を持っている医師がいます。これでは、本当の自立を促すことはできません。自分自身も自立していないことを証明しているようなものです。親身になって相手の立場になり、一緒に考えていく姿勢が求められているのです。

 こうした関係は、政治家と国民でも言えるでしょう。政治家が国民を、国民は政治家を信頼しなければ、双方が自立した関係を築くことはできないのです。それは、障害者と介護者(健常者)の関係でも言えるでしょう。お互いがお互いの立場を理解しようと努め、信頼関係を作り上げる努力をするのです。その作業自体が「自立」への道だと思います。そうして築かれた人間関係は、実は、「相互依存」と呼ぶべきものかもしれません。自立したもの同士が相手によって支えられ、生き甲斐を感じさせてもらいながら生きていく姿です。

 こうした関係の確立には、本音で語り、それを心から耳を傾けて聴くという態度が不可欠です。いわば、血の通ったコミュニケーションがです。時には、口を挟まず、静かに相手の発言を聞き続ける。そして、時に、「確かに、聴いていますよ」というメッセージを交えるという方法で、両者の間に徐々に絆が生まれてくるのではないかと思っています。ともすれば、自分から伝えることに夢中となり、相手のことを聴くゆとりを失いがちですが、「話すこと」より「聴くこと」にもっと時間をかけるべきではないかと考えます。

 私自身、診療を通して、勉強になることばかりです。精神的に自立した患者さんはご家族に触れるたびに、自分の未熟さを痛感しています。忙しい業務の中でも、人の話を聞く姿勢を失わず、これからも学習を積み重ね、「相互依存」の関係を味わい続けたいと考えています。

 今日は、このような機会をいただきありがとうございました。どうかこれからも、率直なご意見やご相談など寄せていただき、私たちを育てていただきながら、お互いの良い関係作りにご協力いただきたいと願っております。