新しい世紀を迎えて

 今の日本は本当に食べ物が豊富である。世界には飢餓に悩む国や地域が多くあるというのに、結婚式の食事は何と7割が捨てられるのだという。まさに「飽食の国、日本」である。ただ、量が多いだけではない。みんなが質をうるさく言うようになった。テレビでは「料理の達人」が腕を競い、おいしい料理を紹介する番組がいつでも放映されている。雑誌はグルメを特集すれば売れるのか、珍しい料理や凝ったメニューの紹介にあふれている。ランキングが発表され、外観、内装、器と料理を演出する舞台にも多くの関心が集まっている。

 一方では、家庭料理が省みられなくなった。「今の子供たちは“おふくろの味”でなく、“袋の味”で育っている」と服部栄養専門学校の服部校長は嘆いている。出来合いの料理やインスタント食品で済ませてしまうことも、多くなった。下宿生活をしている大学運動部員の食生活を聞いて驚いたことがある。ハンバーガーとカップ麺、そして吉野家の牛丼という三つのローテーションなのである。それで飽きないかと尋ねると「カップ麺は毎回違うから大丈夫」とすまして返答された。安く上げるためとはいえ、あまりのバラエティーの無さにびっくりした。

 限られた時間にできるだけ多く食べ物を詰め込むことを競う番組もあった。先ほどのような食生活を送る運動部員たちがこうした大食い競争に関心を抱くのは、むしろ当たり前かもしれない。私は一度見て、気持ちが悪くなって、二度と見てはいないが、事故があって取りやめになったと聞く。体調を壊した方にはかわいそうだが、自業自得の気もする。番組中止は当然の処置だろう。

 食べることに批判を主張しようというのではない。私も食べること、飲むことは嫌いではない。むしろ、一番の楽しみになっている。栄養学的には朝にたっぷりと時間をかけて栄養価の高いものを摂り、夜、ことに寝る前にはできるだけ食べないようにすることが推奨されている。しかし、私にとっての中心の食事は夕食である。一日の仕事を終えて、帰宅し、入浴して、食卓に向かうときの喜びはどう表現したらよいのだろう。安堵感というのか、大げさになるかもしれないが「生きている実感」を感じるひとときである。体重を気にしつつも、時間をかけて、食べ、かつ、飲む。

 おいしいものに対しても熱心に活動をしてきた。旨い店があると聞けば、予定を組んで出かけたものだ。なるほど、手の込んだ料理は値段も張るが、おいしいと感心したことも一度や二度ではない。しかし、最近、燃えるような情熱が失せてきた。飽きがきたのだろうか。一番おいしいと感じるものは、上等な肉や取れたての魚といった高級食材ではなくなってきた。野菜を煮たような家庭料理に何よりの贅沢を味わうようになってきたのである。おいしいものをひたすら追求してきたことの反動かもしれない。

 昔ながらの野菜の料理に、今は、思い入れが強い。これも年齢かもしれない。日本人全体が加熱した感のある「グルメブーム」にずっぽりとはまっている感じがする。一方で、味覚にきわめて鈍感な世代も育ちつつある。いったい、この国はどうなるのだろうか? 20年後の食卓にはどのような料理が並んでいるのだろう。「家庭料理」や「おふくろの味」は幻のものとなっているかもしれない。私の食に対する好みの変化が、私だけのものなのか、多くの同世代にもこれまでと同じように