日本語はどうなるのか?

 時代は変わったが、変わらないものもある。年賀状がその一つだろう。いろいろ議論されながらも、ほとんどの方が年賀状のやりとりをしている。近況を知り、懐かしい思いにふけったりして、年に一度しか連絡のない昔の友人たちからの短い便りなどもあり、この風習は確かに捨てがたい。丁寧に毛筆で書かれた便りには居住まいを正しくするような迫力がある。しかし、さすがに手書きのものは随分減った。友人たちからくる家族写真をアレンジしたものも多い。私も、すでに作ってあるリストから、機械でプリントしてもらっている。印刷されただけのものは、自分が受け取ってもありがたみが少なく感じることもあり、一言でも添えたいと思うが、うずたかく積まれたはがきの束を前にして、とてもすべてには書き添えることができないのが実情である。

 そうした年賀の挨拶にも時代の流れは押し寄せている。技術の進歩やその普及は、私たちの生活や風習も変えていくのだ。年越しを祝い、電話して直接話すことはもとより、メールによる年賀状もある。これらを合わせると大晦日の12時には電話回線が相当混雑するという。パンクしてしまう可能性もあり使用を自粛するよう要請が出たとも聞いた。

 ところで、携帯電話でのメールのやりとりでは一度に送信する文字数に制限がある。したがって、うまく思いを伝えるために彼らの工夫が始まる。クリスマスには「メリクリ」年賀状は「あけおめ、ことよろ」である。「メリー・クリスマス」に「明けましておめでとう。今年もよろしく」の意味だと解説されれば、なるほどである。「美しい日本語の破壊行為だ」と嘆く学者もいる反面、「あれだけ省略しても通じるのはお互いに暗黙の約束事があるから」と新しい動きとして容認する向きもあるようだ。そうした容認派は彼らの省略は、俳句・川柳といった17文字に凝縮して思いを伝える大和文化を継承しているととらえている。産経新聞によれば、お茶の「伊藤園」が平成元年から始めている季語や定型にこだわらない「新俳句」の募集は、年々応募数が増加しているという。
「転校を打ち明けられた二人乗り」
中学生の最優秀の句である。これまで芭蕉の句が俳句となじんできた耳には実に新鮮にひびく。

「『嫁さんになれよ』だなんて カンチューハイ二本で言ってしまっていいの」

「サラダ記念日」に載せられた俵万智さんの作品を思い出す。

川柳にも面白いものがある。「俳句は季節をよみ、川柳は人をよむ」というらしいが、現代を17文字に切り取った作品には、思わず頷かされる。

「デジカメのエサは何かと孫に聞き  浦島太郎」
「抱き寄せた肩を今ではもんでいる」

  また、昨年秋には国立国語研究所の外来語委員会から、外来語の言い換えについての具体例が出された。勘定の報告書や白書にあふれるカタカナ用語を安易に使わず、なるべく日本語表記で行うという基本方針に基づいての提言である。私の分野で言えば、「インフォームドコンセント」が「納得診療」、「デイサービス」が「日帰り介護」とある。「ノーマライゼーション」は「健常者と障害者が分け隔て無く暮らす社会という概念を定着させたいので、文脈に応じて説明を付けて使って欲しい」と言い換え例を示さなかった。インフォームドコンセントが、はたして本当に「納得診療」で納得できるのか、私自身は、ノーマライゼーションで示された慎重な対応を望んでいる。

 それは、リハビリテーションという用語の使用に関しても同じである。「リハビリ」といえば、機能訓練と同義語になってしまっている現状がある。それでは本来の「人間として疾患やけがによる影響を最小限とする全人的アプローチ」という広い範囲に及ぶこの概念、及びその実践が進まない。結果的には重要性や意義が社会に残らないのである。インフォームドコンセントと言われながら、実態はまだまだ普及していないと私はとらえている。医療者は十分に説明していると主張し、患者さんやご家族は医療者の説明によりきちんと理解できたと思っていないという現実がある限り、不十分だと評価するのが妥当だろう。それは、用語の言い換えよりも大切な作業が疎かになっているからではないのか?概念を定着させるための工夫をもっと積み重ねる必要があると痛感する。

 明治維新以来、政府の方針により進められた強引で急速な西洋化により輸入された概念は、漢語の素養あふれる当時の学者により、見事に日本語として定着していった。哲学、科学、権利、などという抽象的概念をよくこのような形に表現したものと感心する。野球などという用語も同様である。しかし、この平成において、外来語の言い換えは素直には進まない気がする。「オピニオンリーダー」を「世論先導者」に、「ライフライン」を「生命線」に言い換える意義があるのか、さまざまな社会の変化を確実に反映させて、日々使われる日本語はどんどん対応し、変化している。すでに、人口に膾炙したそのような用語を役所の固い頭で統一しようとすることの方が、無理がある気がする。

 問題は、使うもの同士の間に共通の定義があるかどうかだろう。それぞれが、勝手に、バラバラの定義で使うと、議論がかみ合わず、言葉の本来の目的であるコミュニケーションを損なうことになる。若い世代が高齢者に通じない話をするのは今に始まったことではない。こうして繰り返される歴史の意味にこそ、思いをいたすべきなのではないだろうか?

 では、古典的な美しい流れを持つ短歌で締めくくろう。斎藤茂吉の作品である。
  しづけさは斯くのごときか冬の夜はわれをめぐれる空気の音す