前回、映画「スーパーマン」で有名となった俳優「クリストファー・リーブ」に起こった悲劇とその後の彼の活動をご紹介しました。
彼は脊髄に損傷を受けました。そのことでもう少しご説明しておきましょう。脊髄は大脳の情報を伝える神経の束です。生命の中枢の集まる延髄から連なって、固い脊椎に守られ、首から腰まで続きます。脊髄からは左右に一対ずつヒゲのような神経が出ていって、手や足に命令を伝える末梢神経となっていきます。したがって、脳に近い方ほどたくさんの情報を含んだ束になっています。つまり、同じ脊髄損傷でも、脳から離れるほど程度は軽くなりますし、逆に、脳に近いほど影響を受ける機能は広範囲となり、強い障害が残ることになります。彼の頚髄の損傷は一番脳に近い上の部分ですから、ひじょうに重症であることが分かります。ここでの損傷は、横隔膜も麻痺するために、怪我をしてすぐに呼吸ができなくなるために、迅速で的確な処置がないと助からないことになるのです。仮に助かっても、一生、呼吸を助ける人工呼吸器を付けなければならないことになります。いかに、彼の怪我が重かったか、そして、その対処が素晴らしく、また、回復が目を見張るものか、こうした医学的な観点からも驚くべきものだと言えます。
彼の活動に戻りましょう。受傷から約半年を過ぎた1996年1月、脊髄損傷による麻痺と闘う人々のため、この分野での医学・医療を推進する「クリストファー・リーブ財団」を妻のディナの協力のもとに設立します。その時、彼は「7年後の50歳の誕生日には自分の足で立ち、グラスを掲げて、長く苦しいリハビリの日々を支えてくれた家族に感謝の乾杯をしたい」と語っています。そして、政治家への働きかけにより、脊髄損傷に関する研究のため国立保健衛生研究所への国家予算からの配分の増額をかち取ります。彼の身体の部分(特に左脚、左腕部分)で感覚の回復が見られましたが、依然として肩から以下は何一つ動かすことはできず、人工呼吸器も必要でした。
2月下旬、受傷後9ヶ月で全国テレビネットCNNの人気ショー番組「ラリー・キング・ライヴ」に出演し、呼吸器なしで90分間呼吸ができるようになったことを報告します。その1ヶ月後の3月25日、アカデミー賞受賞式典に出席し、参加者から総立ちの拍手に迎えられました。
この時期には、計画中のリハビリテーションセンターの支援セレモニーに出席し基金を募り、保険会社の脊髄損傷の患者への支払いの上限を定めるという法案に反対するため政治家への働きかけを行い、8月にはアトランタでのパラリンピック開会式典での大会ホストを務めます。6万4000人の観衆の前で彼はこう語りました。「皆さんを信じる多くの人々がここに集まっているということは、人生最高の贈り物です。どうぞまわりを見回して下さい。いかに多くの人々が皆さんの力を信じているか知って下さい」
8月下旬にはシカゴで行われた民主党全国党大会に出席して、自らの発声でスピーチを行いました。このスピーチで彼は「障害をもつアメリカ人法」の支持を訴え、医学・医療、健康管理に関する科学的研究のより一層の充実を呼びかけています。
1998年初め頃から、彼の体調は少しずつ安定していきました。4月に自伝「Still
Me」(私は今も私)が発刊されベストセラーとなりました。彼は「自分は楽観主義者です。私の傷ついた脊髄から下の脊髄は健在のはずで、いつでも動き出す準備は整っていると思います。私は残された人生を今のままの状態で過ごすつもりはありません」と語っています。そして一日4時間のリハビリを行い、テレビへの出演や映画の監督、講演や脊髄研究のための資金募金活動を勢力的に続けたのです。
2002年9月初旬、リーブは二冊目の著書「Nothing
is
Impossible」(不可能なことなんてない)を出版します。9月25日にリーブは50歳の誕生日を迎えました。7年前の願いは果たされてはいませんが、彼の肉体的機能は著しく改善していることを財団の報告は伝えています。通常、ヒトにおける脊髄損傷後の回復に関して、教科書では、受傷後の最初の6ヶ月で大部分の回復は起こり、受傷後2年で一般的に終わると書かれていることからすればこの回復は驚異的です。
それは彼のたゆまぬ努力と新しい治療法への挑戦によって、可能となったと言えるでしょう。たとえば、彼は2003年2月、新しく開発された、「横隔膜ペース・メーカー」呼吸管理とでも言うべき治験に挑戦しています。腹部4ヶ所に小さな孔をあけ、横隔神経が入り込み横隔膜を動かす位置に小さな電極を置きます。それを皮下のワイヤーを通して体外のバッテリーに繋ぎ、横隔膜を刺激して、呼吸を可能にするというものです。彼は呼吸器を使用しながら酸素消費量が増加した時、補助としてこの方法を試しています。そして、横隔膜の筋肉が強度を回復すれば、呼吸器から離脱できるようになると期待しています。自分自身を実験台として使い、脊髄損傷医療の前進に貢献しようとしているようです。
2004年10月9日、リーブ氏は自宅で心臓発作を起こし翌10日、ニューヨークの病院で亡くなりました。あまりにも突然の死に衝撃が走りました。享年52歳でした。
こうして、彼の一生を振り返ってみて、皆さん、どんな感想を抱かれますか?
私はこの物語には三つのポイントがあるように思います。一つは彼自身のたぐいまれな特性です。二つ目はアメリカの救急医療体制です。三つ目がその後に続くリハビリテーション医療の現実です。日本との比較の上で、二つ目、三つ目は辛い現状でもありますが、簡単に変えることのできない制度上の課題です。ここでは、人が個人の努力や考えからの切り替えによって、つまり自分で手の届く教訓を考えてみたいと思います。
彼を「運がよい人だ」とか、「特別だ」という評価をすることは容易です。確かに、彼は年額40万ドル(約4400万円)の医療費を支払える富裕な障害者です。ではこうした環境が整えば誰でも、彼のような活動ができるでしょうか? 決して簡単に真似できるものではないと思います。突きつけられた現実に対して、真っ向から、決して逃げ出すことなく、立ち向かっていたその精神力と行動力こそ、私たちに与えられた教訓であるように思います。
夢を夢に終わらせず、信じることのできる心、そして、それに向かってひたすら前向きに努力する行動力、この二つが兼ね備わっていたからこそ、彼は医学的な常識では考えられない予想を超えた回復を見せることができたのだと思います。同時に、自分自身だけではなく、多くの脊髄損傷の方、そして、障害を持つ方に勇気を与える人生となったのでしょう。心から冥福をお祈りすると共に、彼の精神を何らかの形で受け継ぐ責任を感じています。
なお、彼の人生については以下のページから引用させていただきました。
・http://www.normanet.ne.jp/~JSCF/REEVE/reeve-top.htm
・http://www.jscf.org/jscf/REEVE/reeve-top.htm
・http://www.christopherreeve.org/
・http://www.chrisreevehomepage.com/