適正な社会のルールとは?

 イスラム教ではラマダーンというヒジュラ暦(イスラムで用いる太陰暦)の第9月には、日の出から日の入りまでの間飲食を絶つ期間が設定されています。この月の断食はイスラム教の最も重要な儀礼の1つで、いわゆる「6信5行」の5行の内の1つで、その宗教的意味は、贖罪(斎戒)です。それまでの一年間に自分の犯した過ちの償いをするためのものといいます。

 イスラム教徒であるインドネシア人の友人は、この「行」の意味を、食べ物に対する感謝を忘れないためと説明してくれました。この期間中も普通に仕事をするのですが、働いている間も飲食は一切しないのです。日が沈み、暗くなると、まず一杯のお湯を口に含むそうです。その温かさと心地よさは特別だと彼は言います。それが故に、いつまでたってもお湯を飲むことができることの有り難さを忘れません。

 物質的に豊かになり、何でも手にはいるようになると、こうしたシンプルな感謝の気持ちを忘れがちになります。むしろ、手に入らないことに不満を覚え、持っている人をうらやんだり、不正な手段で獲得しようとしたりするようにもなります。イスラム教の創始者であるムハンマド・イブン=アブドゥッラーフがこうした傾向のある現代を予測して、戒律を設けたかどうかは分かりませんが、約束事がないと楽な方へと流れる人間の本質をよく知っていた人であることは間違いないと思われます。

 宗教の戒律は信者にとって守って当たり前のものです。戒律を破ることは自己を否定する行為に当たりますからそれは当然のことかもしれません。しかし、一方では、社会のルールの中には、公に定められているのに通常はあまり守られていないものもあります。たとえば、交通ルールです。制限速度は表示されていても、それを遵守して走っている車はほとんどありません。みんな法定速度を越えて運転しています。守っている車がいると周囲とスピードが違いすぎて危険な事態となる可能性だってあります。それでも、警察の取り締まりにかかると、少しでもオーバーして走っていれば道路交通法に違反したとなり罰則を受けることになります。ルールはあるがそれをきちんと守らないのが普通となっている。しかし、時には、そのルールが厳格に適用されるという二重の構造が存在することになっています。そのために、取り締まりを受けた方の心には、ルールを破ったことへの反省や自戒の気持ちは生まれにくく、運が悪かっただけという開き直りのような反応がむしろ一般的となっています。これでは、ルールの意味はないように感じます。

 信号はどうでしょう?赤信号ではとまり、青(緑)では進みます。黄色は注意といわれますが、車を運転中のドライバーの中には、「加速して速く交差点を通り抜けよ」という意味にとらえている人もいるとか。欧米の社会では、通常、赤信号でも歩行者は左右を見て大丈夫と判断すれば道路を渡ることが普通のやり方となっています。日本では、赤信号は止まることというのが厳格に守られています。先ほどの速度制限と大きな違いです。歩行者を守るという意識が強いのが日本の交通法規かもしれません。一方で、自分の判断で行動することを禁じているとも言えます。行政が人を自立した存在と考えるよりも守るべき存在ととらえている象徴かもしれません。

 ルールを自分自身に厳しく適用したために亡くなったという事件もありました。終戦間もない昭和21年のことです。当時の正規の配給品はサツマイモ・砂糖などが、米に代わって少量といった具合で慢性的な食糧難の時代でした。一方、物資をコントロールしていた統制令に基づく摘発は厳しく実施されていました。佐賀県の山口良忠判事は、この時代に、いわゆる「闇」行為の事件担当を勤めていました。そして、「自分が闇で手に入れた物を食べていて正しい判決が出来るか」と正規の配給品しか食べず、栄養失調死してしまったと報道されました。衝撃が世間を走りました。高潔な人柄を賛美する意見がある一方、生きるために何でもしなくてはという現実派からの反論に似た気持ちも流れたということです。現代の法律家は厳格に法を守る姿勢は立派だが、それでは生きた裁判はできないと指摘します。担当者の事情を十分理解し、状況によっては情状酌量の余地ありと執行猶予を付けたりするのはただ法律を厳格に適用するだけでは行えないからというのです。

 いずれにしても、大勢の人間が生活する社会では、一定のルールは必ず必要となるでしょう。問題は、そのルールをどのように運用するかではないかと思います。自分勝手に作り、そしていい加減な適用をしていくと、いつかそのルールに意味がなくなることになってしまいます。ルールがよい働きをするかどうかを決めるポイントは「人」だと思います。組織を構成するすべての人が組織の目的を理解し、自分の役割を自主的に果たすことができるほど自立(律)していれば、約束事は少なくて済むでしょう。基本のルールだけで十分です。自立せず人に依存する傾向の強い人の割合が増してくると、さまざまな場面を想定して、複雑なルールを作っていかねばならなくなります。ルールはその組織を構成する人に合わせて作られて始めて有意義なものとなるのでしょう。

 21世紀が始まりました。押しつけのルールは似つかわしくない時代です。どのような社会を望み、どのようなルールが適切なのか、ひとり一人が考え、行動する時代になったと痛感しています。