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2024.09.01

日本、日本人、自分について(2024.9)

 

 私が初めて海外に渡航したのは、1972(S47)年のことでした。

1970(S45)年3月に高校を卒業し、幸いにも国立二期校であった山口大学医学部に入学することができました。この国立一期校・二期校というのは、1979(S54)年に大学共通第1次学力試験導入に伴い廃止された制度区分です。受験生の都市部への集中を防ぎ、大学進学の間口を広げることが目的でしたが、二期校の試験日程が一期校の合格発表後であったことも関係して一期校と二期校との間の格差が問題にもなっていました。
私は、もう受験勉強はしたくないという思いで、大阪から離れることには抵抗は全く持たずに、入学を決めました。授業料は月1000円でした。当時の医学部では最初の2年間は教養課程で医学に関する授業は全くなく、体育まであって高校の延長という内容でした。大学での講義に意欲は湧かず、友人に代返を頼み、運動部の練習とバイトに明け暮れる毎日でした。その2年間が終わり、専門課程に進むという時に、私は大学を1年間休学し、海外に出たいと考え、両親と交渉をしました。その実、単位が不足していて、実態は留年していたのですが、それは隠して、4月前に帰国し、単位を取ればいいと安直に考えていました。

 

手元に残っているパスポートを見ると、6月1日に出国しています。まずは、モスクワ経由でコペンハーゲンに向かいました。姉の嫁ぎ先の兄弟が彼の地に住んでいたからです。とは言っても、若いので、無理をして空港への迎えを断り、自分で彼らの家に向かうと伝えていました。こうした連絡はすべて郵便でのやりとりです。電話は高価で、特別の場合以外は使わないのが常識の時代でした。
そして、8ヶ月半を経過した1973(S48)年2月15日に帰国しています。その間、いろんなことを経験しました。スペイン南端からヨーロッパを離れ、ジブラルタル海峡を渡りモロッコへ、アルジェリア、チュニジア、リビアと北アフリカ地中海沿岸をエジプトまで移動、ピラミッドやルクソールの王家の谷など訪問した後、船でアテネに入り、久しぶりのヨーロッパを味わいました。次に、イスタンブールへ移動し、陸路でインドまで移動しました。最後はタイで帰国費用をバイトで稼ぎ、帰国しました。
宿も移動手段もその時次第です。したがって、日本との連絡はその国の大使館宛に出してもらう手紙が頼りでした。大使館では、待合室にある日本字の新聞が嬉しくて、少しくらい古いものでもむさぼるように読んでいたのを思い出します。

 この体験の後も、学会や旅行、スポーツイベントへの参加など、さまざまな理由で渡航していますが、私は先の学生時代の経験から、海外に出ることの意味は、日本や日本人、そして自分自身を見つめる機会だと捉えるようになりました。
 今日本では自民党の総裁選びなどをメディアが大きく取り上げています。国内の問題もありますが、私は各候補者が世界の中での日本を意識した視点を持っているかどうかという点に注目しています。
 海外のさまざまな国で全く異なる医療の制度があり、私と同様に医師として働いている人たちがいます。同じ人間で、同じ職業です。しかし、学会などで出会った彼らと話していると、病気やケガを持つ患者や身体機能が衰えてくる高齢者の方々へのアプローチが全然違うことに驚かされます。

 そんな時、原点に帰るのは、日本という国、日本人という人たち、そして、自分自身、それぞれを自分がどう捉えて、これからどう生きていこうとしているのかという問いかけになります。率直に言えば、初めて渡航した50年前の時に思ったこととあまり変わらない気持ちがそこにはあります。かっこよく言えば、ぶれていないということかもしれませんが、でも、成長していないとも言えるでしょう。私は、そんな変わらない自分が嫌いではありません。残す時間が短くなっている今、余計に、それでいいんだよと呟くもう一人の自分がいることを知っているのです。
 体調と相談しながら、これからも海外に出かける機会は作ろうと思っています。そして、その度に、日本、日本人、自分自身について、考えるに違いないと予測しています。そんなことを繰り返しながら一生を終えるのだろうと思います。



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