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2024.03.01
2023年3月28日に音楽家の坂本龍一が亡くなっています。彼は1952(S27)年1月17日生まれで、実は、私と同級生なのです。享年71歳でした。(この文章では、敬称を省きます。)
坂本の人生を簡単に振り返ってみたいと思います。
3歳からピアノを、10歳から作曲を学んで、東京芸術大学作曲科に進み、大学院修士課程を修了しています。1978(S53) 「千のナイフ」でソロデビューをし、同年、細野晴臣がリーダー・プロデューサーの「YMO(イエロー・マジック・オーケストラ)」に、ドラムの高橋幸宏とともに参加しています。高橋も脳腫瘍から誤嚥性肺炎を併発し2023年1月11日に70歳で亡くなっています。高橋死去が公表された1月15日の朝、坂本は無地の灰色一色の画像のみのものをSNSに投稿しています。言葉は要らないという彼の追悼の思いからだったと推察しています。坂本には「教授」という愛称があるのですが、それは大学院時代に高橋が名付けたものといわれています。
そして昨年3月の坂本の死去が報じられた時には今度は細野が同じような無地の灰色の画像をInstagramへ投稿しています。YMOのメンバーとして一人残された彼の胸中を去来したものは何だったのでしょうね。
YMOは1980年代初頭のテクノ / ニュー・ウェイヴのムーブメントの中心にいたグループの一つで、シンセサイザーとコンピュータを駆使した斬新な音は、当時の若者の心を虜にしました。1983年に「散開」しているのですが、その5年間に音楽のみならず、ファッションなど多方面において、時代に多くの影響を与えました。
1983(S58)年3月、カネボウ化粧品のCMタイアップ曲となったシングル「君に、胸キュン。」のメロディは今でも耳に残っています。この年出演し、音楽も担当した大島渚監督の映画「戦場のメリークリスマス」(外国語題Merry Christmas, Mr. Lawrence)で英国アカデミー賞音楽賞を受賞しています。
1987(S62)年公開のベルナルド・ベルトルッチが監督・脚本を手がけた映画「ラストエンペラー」では、日本人初のアカデミー賞作曲賞を受賞し、ゴールデングローブ賞最優秀作曲賞、グラミー賞映画・テレビ音楽賞も受賞しました。
1990(H2)年公開のベルトルッチ監督のイギリス映画「シェルタリング・スカイ」のサウンドトラックを担当し、ロサンゼルス映画批評家協会賞の作曲賞、1991年に2度目となるゴールデングローブ賞 作曲賞(第48回)を受賞しています。
ともかく、さまざまなジャンルで、いずれも第一級の活動を積み上げてきたのが坂本です。
その彼が2014(H26)にニューヨークの病院で中咽頭ガンが発覚したと公表しました。幸い放射線治療により寛解していますが、その後、再び、ニューヨークの同じ病院で彼は直腸がんと診断されます。その闘病の日々を含め、いわば自伝のように、彼自身を赤裸々に語った記事が文芸誌『新潮』に2022年7月号から2023年2月号まで掲載されました。連載のタイトルは「ぼくはあと何回、満月を見るだろう」です。そして、タイトルはそのままで2023年新潮社から単行本として発刊されました。
このタイトル「ぼくはあと何回、満月を見るだろう」は、彼が音楽を手がけた映画「シェルタリング・スカイ」に出てきた原作者でもあるポール・ボウルズの言葉に影響されたと言います。映画のラストシーンでポール・ボウルズはこう語っているのです。
我々はいつ果てるかを知らない。
だから人生を涸れない井戸のように考える。
だが、いかなる事も 限られた数しか味わえない。
自分の人生に深く影響を与えた幼少期のとある昼下がりを、幾度思い出すことだろう。
自分の人生を左右したと思えるほどの大切な思い出を、人は何回心に浮かべるのか。
4,5回? それ程ないかもしれない。
満月が昇る姿をあと幾度見るだろう?
たとえ20回だとしても、すべてが無限の如く思えるのだ。
すでに、映画「シェルタリング・スカイ」公開の1990年から30年以上経過しています。しかし、がんを患った坂本の頭に、このフレーズが親和性を持ってよみがえったのではないかと想像しています。
以下、この本から引用した述懐を織り交ぜながら、闘病を振り返り、感想を述べたいと思います。
中咽頭がんから立ち直った彼が再び、がんに罹患し、直腸ガンおよび転移巣の手術を受けたことを発表したのは2021(H9)年1月のことでした。2020(H8)年6月に新たにガンが発見されたのだというのです。もっとも当時のコメントには「すばらしい先生方との出会いもあり、無事手術を終えて現在は治療に励んでいます」とあり、さらに「治療を受けながら出来る範囲で仕事を続けていくつもりです」と仕事への前向きな姿勢を示していました。多くのファンは心配しつつも、安堵したことでしょう。
咽頭がんの治療の経過が良かったこともあり、その施設を信頼し、放射線治療と並行して抗がん剤も服用したそうです。しかし、数ヶ月経過してもなかなかがんが消えてくれませんでした。
2020(R2).12 日本に仕事で帰国するのですが、その時、自分自身で気になっていた物忘れの徴候について、精査しようと人間ドックを申し込み、受診します。その結果、脳は正常といわれたのですが驚いたことに、直腸ガンの肝臓やリンパ節転移が判明し、Stage 4と診断されたのです。ニューヨークの病院での放射線治療が修了して3ヶ月が経過していたのに転移は告げられていなかった。「9月末には転移の根っこは見えていたはずなのに。」と「一気に不信感が芽生えた」と語っています。
日本で最初に受けた腫瘍内科の医師からは、「何もしなければ余命半年ですね。」とはっきり告げられ、「既に放射線治療で細胞がダメージを受けているので、もうこれ以上同じ治療はできない。強い抗ガン剤を使い、苦しい化学療法を行っても、5年の生存率は50%です。」と説明されます。彼は、「統計に基づいた客観的な数字なのでしょう。でも、仮にエビデンスを示したとしても、患者に対しての言い方ってもんがあるだろう。」「正直頭にきてしまいました。こちらに希望を与えないような悲観的な断定をされ、ショックで落ち込んでしまった」と書いています。
彼はその医師とは相性が悪いと考え、知人の医師の紹介で別の病院を受診しセカンドオピニオンを求めます。するとその後、肺への転移も見つかり、「絶望的な状態」となります。
一般的ながん治療について、おさらいしておきましょう。
がんの治療法は、3本柱として、手術(外科治療)、薬物療法、放射線治療があります。がんの種類や進行度によって、これらの治療法を組み合わせて治療の計画を立てるのが一般的です。とはいっても、専門家の意見が必ずしも一致しないこともありますし、珍しいタイプでは、確立されていないこともあります。そこで、必要に応じてさまざまな専門分野の医師や、看護師、薬剤師などが加わり、検討することもまれではありません。さらに、医療者は医学的にもっとも効果が期待できる治療の組み合わせを年齢や性別、がん以外の持病も考慮しながら探るのですが、その一方で生活や仕事の環境、本人のこれからの人生の計画や希望なども聴取し、総合的に判断し、治療法を決めていくことになります。こうした検討の機会は治療開始時だけではなく、その後も定期的に検討し、必要に応じて治療法をアレンジするのが好ましいとされています。
坂本の場合、転移が複数あるステージ4の直腸がんで、一度放射線治療と抗がん剤での治療を試みたケースとなります。皆さん、ご自身なら、どのような治療をイメージされますか?
確かに、遠隔転移があったり、残念ながら再発した場合でも、癌病巣をすべて切除する手術治療を選択することもあります。もちろん、切除可能であるかどうか、綿密に検査した上での判断です。彼は、この積極的治療の方針を選択しました。
2021(R3).1月に20時間かけた大手術で、直腸の原発巣、肝臓2か所、そして、リンパ転移の切除を受けるのです。術直後にはこんなコメントを残しています。
「これからは“ガンと生きる”ことになります。もう少しだけ音楽を作りたいと思っていますので、みなさまに見守っていただけたら幸いです」
この過酷な状況と大きな手術を彼が乗り越えることができた背景を本から探ってみました。一つは、体力面です。「術後は体力や免疫力が落ちるのは分かっていたので、手術前は毎日、1万歩を目指して歩いていました。」という記述があります。そして、入院先の病院では「手術後は看護師さんに、『身体が痛くてもなるべくベッドから出て、ソファに座りましょう』と言われました。さらに、『できれば立ち上がって歩いてください』と。」いう記述もあります。
もう一つは彼自身が書いていますが、「愛に救われた」ということです。
食事ができるようになり、食欲が出てきた頃、毎日パートナーが差し入れをしてくれるのです。しかし、コロナ禍での面会制限で直接会うことができないため、「いつしか病院の向かいの車道を挟み、互いに手を振り合う習慣ができました。夕方、彼女はスマホのライトをつけて『ここだよ!』と道路越しに手を振ります。そうすると、10回の病室の窓からは豆粒のように光が左右に揺れるのが見える。パートナーとしては、ぼくをベッドから立ち上がらせようという目的もあって、この方法を思いついたのだそうです。」と書かれています。続けて、「すぐそばにいるのに会えないから、『ロミオとジュリエットみたいだね。』なんて言い合い、この習慣に『ロミジュリ』という名がつきました。『ロミジュリ』は1ヶ月くらい、毎日続いたんじゃないかな。その後も入院するたびに、彼女はそうしてくれました。ベタな言い方だけど、辛い時にこそ愛に救われると思いました。」というのです。
この手術に続き、2021(R3).10月と12月の2回に分けて、両肺の転移腫瘍の摘出手術を行っています。2年間に大小6度の手術を受けているのです。しかし、担当医からは「まだ病巣は残っており、さらに増殖しているので、手術で取るのではなく、薬で全身的に対処する」といわれ、辛い抗癌剤治療も継続するのです。さまざまなサポートを受けながらも、彼の強さに驚嘆します。それは仕事への復帰の過程でも明かです。
2022(R4).3月には東北ユースオーケストラを指導し、ステージ復帰を果たしています。そして、7月から文芸誌「新潮」に口述筆記の聞き手を務めた鈴木正文氏の協力を得て 「ぼくはあと何回、満月を見るだろう」の連載を開始しています。鈴木氏は「あとがき」に最晩年の坂本の様子を記しています。彼は、病床で本を読んだり映画を観たりということを積極的にしており、自身が選曲した『Funeral (葬儀)』と題した、自身の葬儀で流す為のプレイリストを作成し、その曲目や曲順を何度も入れ替えたりしていたというのです。強い意志でがんの治療に臨み、多くの手術を経験して生への祈りを感じさせる一方で、自らの死も予見し、準備していたのですね。
2023(R5)年1月5日 テレビ特番「坂本龍一 Playing the Piano in NHK & Behind the Scenes」が、NHK総合にて放送されました。収録を行ったのは、自身が気に入り、一番だと評価するNHKの509スタジオでした。体力が落ちていることを配慮し、代表曲をセレクトした撮影は1日2~3曲ずつ時間をかけて丁寧に行われたといいます。
彼は「せっかく生きながらえたのだから、敬愛するバッハやドビュッシーのように最後の瞬間まで音楽を作れたらと願っています。『戦場のメリークリスマス』のメロディは、30秒で思いつきました。たとえ短い時間でもピアノに向かえば新しいメロディが生まれる可能性があるのですから。自分の体力がある限り、ぎりぎりまで挑戦し続けていきます。」と話していました。
それから2ヶ月あまり、2023(R5)年3月28日彼は星になりました。
坂本龍一の人生を特にがんとの闘病生活から死に至る過程を振り返ってきました。
私は、72歳を超えて、今生きている自分が時に申し訳ない気持ちになる時があります。
同じ年や私より若い方が、亡くなったという訃報に触れるたび、私自身に生きている価値があるのかと、問いを突きつけられたような気持ちになるからです。しかし、人間はいつか必ず死を迎えます。がんという病気が最も多い死因になっていますが、この病気は、考える時間を与えてくれるという意味では、患者にとって、なかなか捨てがたい面もあるのではないかと思ったりします。
彼の人生を追いかけてみて、私自身は生き抜くことの重要性を自分に言い聞かせ、同時に、いつか終わる日が来ることを改めて認識して、心の準備をする気持ちになりました。生きていることは楽ではありませんが、今を大切にしようと思っています。