読み物BOOKS

2023.12.01

「太陽の家」 訪問記(2023.12)

 皆さんは「太陽の家」をご存じでしょうか?
 大分県別府市にある社会福祉法人です。創設者は中村裕(なかむらゆたか)先生(1927-1984)で、1965(S40)年に創設されています。障がいのある人が働き、生活する施設です。No Charity, but a Chance! (哀れみよりも就労機会を<拙訳>)を理念に、障がいのある人の働く場づくりに取り組み、多くの人が社会復帰しています。たとえ身体に障がいがあっても、工夫さえすれば働く能力には関係ありません。また、常に介助を必要とする重度の障がいのある人も地域と交流を深めながら生活を楽しんでおられます。

11月23日の祝日を利用し、今回、この「太陽の家」を訪問することができました。このご縁が生まれたのは、中村先生が生涯をかけて実現しようと取り組んでこられた障がいを持つ方への支援、その考え方の元となった体験と関連しています。

 

 中村先生は大分県別府市出身の整形外科医です。1951(S26)年に九州大学医学部を卒業されました。私の生まれた年でもあります。その後、九州大学病院整形外科に入局され、故天児民和名誉教授の指導の下、当時では未開の分野とも言える医学的リハビリテーションをご専門として研究されました。国立別府病院の勤務を経て、1960(S35)年に厚生省(当時)からの研修として、英国のストーク・マンデビル病院に留学され、ルートヴィヒ・グットマン博士に師事されました。
 このグットマン博士(1899-1980)は、ドイツ出身のユダヤ系神経学者です。ライプツィヒ大学で神経医学を修め、ユダヤ人の病院に勤務されていたのですが、当時のドイツはナチスによる反ユダヤ主義が社会を覆い始めていました。そこで彼は1938(S13)年ドイツを離れてイギリスに亡命し、オックスフォード大学で脊髄損傷についての研究をしていました。1944(S19) 年、彼の専門性をいかすためでしょう、ロンドン郊外のストーク・マンデビル病院国立脊髄損傷センターの所長に就任します。そこでは第二次世界大戦での戦傷で脊髄に損傷を受け、障害を持つことになった傷痍軍人たちが多く収容されていました。
医師と看護師、理学療法士や作業療法士だけではなく、ケースワーカーや職業斡旋に携わる職種も加わり、多職種のチームで治療と訓練を行います。目的は彼らの社会復帰であり、就労でした。職業訓練センターが整備され、障害者雇用促進のための法整備も進められていました。

 

当時の日本では脊髄損傷により下半身が麻痺した患者の多くはベッドに寝かされていました。リハビリとは温泉に浸かり、マッサージするだけという内容で、ずっと施設にいるしか先が見えない状況だったのです。それがストーク・マンデビルでは全く違いました。早い時期からスポーツを取り入れ、自主的に積極的に身体を動かす機能訓練を受けさせるのです。卓球、水泳、アーチェリーにバスケットボール、さまざまな競技が取り入れられていました。理学療法士が付いてこれらの競技に参加してもらい、訓練していきます。
1960(S35)年、こんな現場を中村先生は目の当たりにされます。そこは、日本のリハビリとは全く違うものでした。一番の違いは患者さんの表情だったと言います。暗い眼をして天井を見つめる日本の患者しか知らないでいた中村先生には大きな衝撃だったと思います。ストーク・マンデビルで訓練に励む患者たちは、皆生き生きとした表情で、前向きにこれからの自分の人生を語るのです。これには心から驚き、グットマン博士の実践されている手法をどうしても日本で行いたい、こう中村先生は誓われました。

 

グットマン博士のスポーツを取り入れたリハビリテーションの成果を問うものとして、1948(S23)年のロンドンオリンピックの開会式の日に入院患者を対象としたストーク・マンデビル競技大会を企画し、実行されます。この競技会はその後国際大会として開催されるようになり、参加者数も増えて規模が拡大します。1960(S35)年には同年のローマオリンピックに合わせ開催された国際ストーク・マンデビル車椅子競技大会に発展し、それがのちにパラリンピックの第1回大会、ローマパラリンピックと見なされることとなり、グットマン博士は「パラリンピックの父」と呼ばれています。
 

ストーク・マンデビル病院にて グットマン博士と中村先生

 

グットマン博士は傷痍軍人たちを治療にあたり、「障害ではなく、能力こそが重要である (It’s ability, not disability, that counts)」という言葉を残しておられます。先述したようにこの考え方や活動とその成果に感銘を受けた中村先生は、その後、障害者スポーツ振興、そして就労支援に情熱を傾けられ、「太陽の家」創設につながるのです。
帰国後の1961(S36)年、地元である大分での身体障害者体育大会の開催、さらに、1964(S39)年の東京パラリンピック後にパラリンピックを開催することを要請し、実現に向け努力を続けられます。1964(S39)年6月には、パラリンピックの開催準備の視察のため、グットマン博士を招聘され、大分県で開催された身体障害者体育大会にも招かれるのです。
 そして、11月になり、実際の東京パラリンピックでも博士は来日され、開会式でスピーチをされます。この大会で中村先生は日本選手団の団長を務められ、それ以降1980年までの全ての夏季パラリンピックの団長を務めておられます。東京パラリンピックの日本選手団解団式で団長の中村先生はこう述べておられます。
「社会の関心を集めるためのムードづくりは終わりました。これからは人々のやさしい気持ちにたよるのではなく、障がいのある人が自立できるよう施設をつくる必要があります。戦いはこれからです。」
その翌年の1965(S40)年、中村先生は「太陽の家」を創設されたのです。まさに有言実行、まれに見る決断力と行動力の持ち主だと感銘を覚えます。


19064年東京パラリンピック 選手宣誓をする青野繁夫選手の後ろに立つ中村裕先生

 

今回の訪問の直接的なきっかけをご紹介したいと思います。グットマン博士は1976年に“Textbook of Sport for the Disabled”という書物を発刊されました(下図)。

日本でのこの書物の版権を持ったのが、私の師匠である市川宣恭先生でした。私たち弟子は、彼の指示によりこの本の和訳に取り組みました。定期的に長居にある身体障害者スポーツセンターに集まり、語学に堪能の職員であった小西さんのご指導をいただきながら、少しずつ訳を進めておりました。最終段階に近づいたとき、私が原稿を預かっていたのですが、医局で紛失するという失態をしでかしてしまいます。その責任から、最終的な訳のまとめを私が担うことになり、それが故に、下っ端であるにもかかわらず、訳本の表紙に市川先生、広橋先生という大先輩のお名前の下に指名が載ることになりました。そして、1983(S58)年5月『身体障害者のスポーツ』(医歯薬出版)として、形となります(下図)。

私は、この翻訳が終了したことをグットマン博士に報告したいと考えました。たまたま、大学の医局人事を離れ、父が理事長・院長を務める島田病院への就職をする機会でもあり、行くならこのときしかないと、1984(S59)年4月にこの本を携え、ストークマンデビル病院を訪問したのです。しかし、すでにグットマン博士は亡くなっていて、事務局のScruttonさんにお渡しすることになりました。後方にグットマン博士の写真が飾ってあります。

 今回、太陽の家を訪れることになったのは、太陽の家法人本部長の服部直充さまから、私のブログの記事を目にされて、この訳本があるなら見たいという連絡をいただいたからです。この本の存在はご存じだったのですが、実際に手に取ったことはないため、1度は見たいので、貸してもらえないかというご依頼でした。そこで、手元に残っていた一冊を送り届けました。大変丁寧な礼状が届き、喜んでもらえたことが嬉しかったこともあり、実際の現場を是非見たいと今回の訪問になりました。

 

 当日は「太陽の家」の幹部の方が集まる重要な会議があると言うことだったのですが、会議の前にお時間をいただき、山下達夫理事長にもお目にかかり、ご挨拶することができました。そして、併設の太陽ミュージアム館長である四ツ谷奈津子さまに、施設をご案内いただき、ご説明をいただくことができました。
 実は、訪問の4日前まで「車いすマラソンの魅力と可能性:過去・現在・未来」をテーマに、第32回日本パラスポーツ学会を主管されており、服部さまは学会長を務められていたことを後で知りました。きっとお疲れだったでしょうに、申し訳ないことでした。

中村先生の銅像の前で(撮影:四ツ谷奈津子さま)

 

 


 ご案内いただいた四ツ谷さまです。中村先生のご紹介とご遺品が並べられています。このドクターバッグ、実は、私も持っていたことがあり、なんとなく、嬉しい肝持ちになりました。

 当施設の概要は素晴らしいもので、とても語り尽くせません。トイレやドアノブ、また廊下の鏡など、至る所に配慮がありました。そして、障がいを持つ方の就労への支援のさまざまな具体的な器具や工夫を見ることができました。そこでは、グットマン博士、そして、中村先生、さらに、この機会を与えていただくことになった恩師の市川先生という偉大な先人の魂というか、ご遺志が強い力で伝わってきました。それは、私自身にとってこのようなご縁を持つことができたという幸せの実感であり、同時に、「おまえはまだ生きているんだぞ、その間にできること、しなければならないことはまだ残っているぞ。」と叱咤された気持ちになりました。受けた衝撃の大きさをかみしめながら、さて、まず何をするかと大阪に戻る道すがらずっと考え続け、今も頭を占めています。



一覧に戻る