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2021.08.01
私は、整形外科医としての訓練を始めて間もない頃から、スポーツ医学を専門として学ぶようになりました。師匠の市川宣恭先生に、指導を受けながら少しずつ、スポーツ選手の診療を行い始めていました。1983(S58)年頃の話です。
市川先生の元には、多くの有名選手が訪れ、受診していましたが、私にそんな一流のアスリートを診る機会はありません。選手にも迷惑ですし、私もプレッシャーで診療どころではなかったでしょう。多くは、近隣の中高生の運動部員たちが私の患者さんでした。1回戦、2回戦で敗退するのが常の決して強いチームや個人ではないとしても、彼らは一生懸命にそれぞれのスポーツに取り組んでいました。その彼らはちょうど成長期に当たります。身体が日々変化する時期になります。骨には成長線があり、成人の骨よりも柔らかく、そのために、同じ動作を積み重ねることで、成人とは違うスポーツ障害が発生することになります。
代表例としては、膝のお皿の下のところに痛みがあって、外見上も膨れてくるオスグッド氏病があります。これは、走ったりジャンプするときに使う膝を伸ばす仕組みの筋肉、腱の最終のひっついている場所である膝の前のところになのです。ここがスポーツ活動により、筋肉が使われ、繰り返し引っ張られるために、成長期の柔らかい骨がその刺激によって引き延ばされて、出っ張ってくる状態と説明されています。個人差はありますが、小学校高学年から中学校という、ぐっと身長が伸びる時期に多いものです。彼らは、練習を休むことを嫌がりますし、試合には絶対出たいといいます。その解決法として、休ませることは得策ではないことを説明します。そして、スポーツを続けながら痛みを軽くするために自分で手入れをする方法があることを教えるのです。診察後、リハのスタッフにストレッチの方法などを指導するよう指示して、自分で行うよう伝えていました。
そんな時代に、あるスポーツ医学の研究会で、私がこのオスグッド氏病の選手たちの状況をまとめ、リハビリによって痛みは半分以下になるので、練習などのスポーツ活動は基本的には継続させる方法で対処していると発表しました。その発表で座長を務めていた国立大学の教授は、「先生は、スポーツ医学の大事なポイントを忘れていませんか。子供たちの身体を守らなければならない私たちなのに、スポーツを継続させるのは、医師としての役割から外れていると思います。」と強い指導を受けました。
それから10年近くが経過し、2002年に開かれたソルトレイクでの冬季オリンピックに出場する予定のスピードスケートの選手が最終選考会で足首を骨折するという事態が起こりました。この選手はその前の1998年の長野大会の金メダリストで、運動器については私が担当していました。12月30日のケガをしたとコーチからの連絡が入り、急遽、コーチが車で当院へ運びこみます。そして、翌31日大晦日に手術です。オリンピック本番まで、50数日しか残されていません。通常、足首の両くるぶしが折れてしまえば、いくら手術でうまく金具を使い、骨折した箇所を固定しても、普通に歩けるようになるまで1ヶ月半はかかります。しかし、レース出場まで2ヶ月を切っています。スケート連盟は、他の選手を選ばず、1%でも出場の可能性があるならと、前大会金メダリストである彼を選択し、出場への期待を残します。
手術はどちらにしても必要ですから、その点では話し合いはすぐに済み、了解を得ました。問題は、レース出場を目標とするかどうかです。本人、コーチと話し合います。普通はというか、常識的には、レース参加は無理で、早めに動き始めれば、金具で止めている箇所が再度骨折してしまう危険性があることを説明しました。彼から、「先生、もう一回折れても治せるのですか?」と質問が来ます。ちょっと詰まりましたが、「最初の手術より難しくはなるが、やり直したらええねん。何とかできるで。」と私。コーチからも、「諦めずにレース出場と動いたことで、結果、選手生命が脅かされたり、短縮することはないでしょうか?」という質問も来ました。「仮に再骨折したら、寄り道にはなるけど、時間かけてでも元に戻せると思うな。しやけど、お互いように頑張らなかなんけどな。」と答えたと思います。結論は、オリンピック参加です。そこで、レース出場に向けて、逆算して計画を進めることになります。術後3週間経過したら、氷上練習参加しないと間に合わないというコーチの判断から、1週間で普通の歩行、その後まっすぐの方向での体重をかけての曲げ伸ばしを進めます。予定通り、3週間経って、氷上練習に参加しました。そして、カナダでの事前合宿に参加し、レースを迎えることができました。
彼が骨折した時、冬季オリンピックに向けて盛り上がりを見せていましたから、そのニュースはスポーツ新聞の一面に大きく掲載されました。ある整形外科医から「通常、歩くのに1ヶ月半かかることを考えれば、出場は断念せざるを得ないだろう。」とコメントが記事にされていました。ところが、出場の判断です。
術後1週間目、院内で記者会見が開かれ、彼は杖もつかず、一人で歩いて会場に入り、記者の人たちを驚かせました。この彼のというか、私たちの決断に対して、友人の整形外科医から情報が入ります。「骨折した選手を短期間の間にあるレースに出場させるという判断は、いくらオリンピックだといってもおかしい。民間病院の整形外科医の売名行為だと某大学の教授が話しているから、気をつけろよ。」と忠告されました。あくまで選手と話し合って最終的な決断に至るのが普通と思っている私にとって、「出場させる」とか「させない」という医師に決定権があるかのような発想自体を持ち合わせていなかったので、「何言うてるねん。」という感想しかありませんでした。
治療方針決定の方式は時代とともに変化してきています。1980年代以前には、医師は権威者であり、患者は医師の知識と経験の前に無力で、昔の父親が決めるように医師が治療方針を決定する「パターナリズム」が主流でした。つまり、決めるのは医師の役割だったのです。先の事例において、選手が出場するかしないか、担当医が自分の判断でさせるかどうかを決めるというのは、この当時の名残となります。もちろん、その責任は、当然決定した医師にかかってきます。そのことも含めての方針決定のあり方でした。
それが、1990年代に臨床研究が積み上げられた結果、過去のいくつかの治療方法の結果が統計的に示されるようになり、その根拠(エビデンス)に基づいて治療の方針を決める「エビデンスに基づく医療」(evidence-based medicine:EBM)が導入されるようになりました。この情報を使い、検討の場に患者や家族が加えられるようになったのです。そのこと自体は一歩前進だったのですが、医師から情報が与えられて、最終決定は患者がするという形を取ると、専門的な情報を患者が十分理解しないまま決定を委ねられる場合も生まれ、結局は医師の決定に従うことが多いという結果になっていたのです。
この反省に基づき生まれたのがSDMとなります。医療者は、医学的情報に基づき、専門家の立場からの助言を伝えます。患者(・家族)は自分の大切にしているもの、したいこと、これからの計画、さらに、仕事や趣味、家庭環境といった個人的、社会的な情報を伝えます。両者がこうして情報を出し合い、双方向の話し合いを行った上で、両者の話し合いによる最終決定に到達するという形に発展していったのです。
つまり、SDMは次のような要件からなると考えられます。
①治療を受ける患者(+家族、関係者)と医療提供者の双方が参加する
②お互いがそれぞれの立場からの情報を提供し、共有する
③双方が治療における選択肢の種類とその特性を理解する
④双方が意思決定における責任を共有しながら決定の合意をする
この手続きは、手術などの各種の治療や遺伝子検査における治療などの医学的処置の受け手と送り手の間での意思決定に有用であるばかりか、人生の終盤においての対応を話し合うアドバンス・ケア・プラニング(ACP)においても、同様の位置づけになると考えています。
ケアは本人のためのものであることは言うまでもないのですが、私は、スポーツ医学を選手の立場で考えていたから、ごく自然に、がんであれ、神経難病であれ、終末期におけるケアの選択であれ、こうしたSDMの考え方に馴染むことができたのではないかと振り返っています。私としては、治療方針についての話し合いを持つこと、そして、その場合、勇気を持って、自分の価値観を必ず、医療者に告げること、そして、お互いの理解の上で、意思決定がなされることが一般的となってほしいと願っています。