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2019.05.01
第二次世界大戦が終結し、各国が平和に向かい、一歩一歩歩み始めていた1948年4月に「全ての人々が可能な最高の健康水準に到達すること」を目的として世界保健機関 (World Health Organization: WHO) が設立されました。現在の加盟国は194カ国で、日本は、1951年5月に加盟しています。その時発効したWHO憲章の序文では、健康の定義がこう記されています。
「健康とは身体的・精神的・社会的に完全に良好な状態であって、単に病気や虚弱でないことではない」
この定義について、その後1998年にスピリチュアルという項目を付け加えるよう提案されましたが、改正にまで至らず、現在に至っています。
一方、この健康の定義に対しては疑義もありました。2011年オランダの医師Machteld Huberが健康の定義の見直し(再定義)を提案しました。
彼女は「身体的・精神的・社会的に完全に満足している状態」とするWHOの定義が、病気つまり、医学で対応するべき問題を拡大して、本来治療の対象ではないものまで医学で解決しようとする「医療化 Radicalization」などの弊害を招くと主張しました。そして、健康を身体的、精神的、社会的な側面で環境の変化や問題に「適応し、対応できる能力」(the ability to adapt and self manage)と定義することを提言しています。
皆さん、WHO の定義にしたがって判断したとき、「健康」と胸を張って言える人はどれくらいいると思いますか? そもそも、障碍を持って生まれた人は、この定義に従えば、健康ではないという烙印を押されることになります。もちろん、障碍を持って生きることは容易ではありませんので、さまざまなサポートが必要となることは分かります。しかし、医学的な対処が必要かと言えば、それは時と場合によりますね。
つまり、障碍があるから健康ではないとしても、常に治療の対象になるわけではありません。しかし、WHOの定義が染みつくと、100%の状態から少しでも欠損部分が生じると、治療の対象になるという考え方が一般的になっていることは事実です。
ところが、超高齢社会では、この理屈はまったく通じないようになります。高齢者というのは、どこかに問題があるのがむしろ普通だからです。100%の状態である高齢者はほとんど存在しません。何らかの欠損を持っているのが当たり前だとすると、すべての高齢者に対して、欠損部分への医学的な対応をすることは、過剰な反応であることになるでしょう。
私は、欠損というのは、個性であり、むしろ特性ではないかと考えるようになりました。それが出発点で、その人がその人らしく生きることが何より重要なことで、その状況を作ること、それが、ヘルスケア従事者が果たさねばならない役割ではないでしょうか。
「自分が健康か否か」を判断するのは、自分自身であって、他者ではありません。健常な人と比較して何か機能や形態に違いがあっても、それがすぐに異常であり、病気であるということにはならないのです。まして、医師が、健康か病気かを判断するのではありません。
健常者の機能や形態と異なる点があっても、その状態や状況に適応し、自分で立てた目標に向かって努力している場合、その状態は「健康」と言ってもいいのではないでしょうか。
もちろん、逆もあり得ます。医学的には「健康」だと判断されても、ご本人が心身に不安を感じているとなれば、それは「不健康」で治療の対象となることもあるのです。
100%完全ではないとしたときに、一つ目の課題は、その状態のとらえ方になります。100から減ったマイナスの状態と悲観的にとらえるのではなく、そのまま受け止め、次のステージを見据えるということです。そして、二番目は、仮に80%だとして、どうすればその中身が濃いものになるか、何を目標とするべきか、その目標に向かって具体的にどんなプログラムを立てて、実際に実行していくべきか、こんな課題を克服していくことだと私は思っています。
生身の人間が、年老いていくとき、確かに、情けないことが出てきます。若いときの自分を対比させると悲しい気持ちにもなるでしょう。しかし、それは、人間にとって覆すことにできない宿命なのです。ただ、だからといって、ションボリと下を向いて最期の瞬間を待つのはイヤじゃありませんか。そうではなく、自分らしく、積極的に前を向いて、一瞬一瞬を大切に生きることを積み重ねていくことが何よりも重要ではないかと思っています。