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2012.10.01
「日本人論」というのがあります。他の国に比べて、このテーマについての国民の関心が高いというのがまた、一つの日本人の特性だという意見もあるようです。ただ、そのいずれもが一種の流行となってしまって、一時的にもてはやされても、結局定着した日本人論としては評価されない特徴があると「新書大賞2010」に選ばれた「日本辺境論」を著した内田樹氏は述べています。
この本は「ある種の文化的劣等感を日本人は持っている。それは辺境諸民族のひとつとしてスタートしたからだ。」と1957年に「中央公論」に発表された梅棹忠夫氏の論考「文明の生態史観」を主題としています。著者自身が「この本で新しい創見はなく、いわば先哲たちの「抜き書き帳」みたいなものだ」と述べています。ただ、せっかくのすばらしい日本人論を少し時間が経つとすぐに忘れられて次の日本文化論がもてはやされることに問題提起をして、「日本人とは辺境人である」という視点から、日本人の性向も特殊性も、すべて説明がつくと主張しています。
私は、ヘルスケアという分野の仕事に従事し、ヘルスケア機関の経営に携わっており、より良い組織や人の管理を実践したいといつも考えています。同時に、医療や介護の現場で、たくさんの患者さんやご家族の悩みを伺って対策を相談したりアドバイスしたりしています。また、スポーツ医学を専門として勉強しており、さまざまな競技で一流を目指す選手やコーチの側にいて、彼らの努力を間近に見ることもあります。そして、そうした異なる領域の仕事をしながら、日本人だけではなく、諸外国の方々と話す機会もあります。そこで、異なる業界でしきたりの違いに驚いたり、同じやり方に感心したりするように、国際間での違いや逆に共通点を見つけて、おもしろがったり感心したりしています。
そうした経験から、国の間での違いに興味が生まれ、その差がどこからが生まれるのかと素朴な疑問を持つようになりました。そのため、内田氏のというか、オリジナルの梅棹氏の「辺境人としての視点」で日本人を解釈することで、日本人の特性や特殊性の説明がつくという指摘に、なるほどと感心したのだと思います。
この本で言われている「辺境」とは「中華」という概念に対立するものとして定義されています。中華思想では、世界の中心に皇帝が鎮座する「中華」があって、そこから離れると光が届かず暗くなって「辺境」になるとされています。ともかく中心以外は、認められないのです。東西南北どの方向でも離れたら辺境です。東夷(とうい)は日本・朝鮮などの東方諸国、西戎(せいじゅう)は西域と呼ばれた諸国、北狄(ほくてき)は匈奴・鮮卑・契丹・蒙古などの北方諸国、南蛮(なんばん)は東南アジア諸国や南方から渡航してきた西洋人などを意味しており、いずれ中心から離れた辺境で、中華からすれば、統治ではなく征伐の対象になります。誠に強烈な選民思想です。
その裏返しで、辺境の日本は中華に抵抗するのではなく、その存在を認め、「外来の知見を『正系』に掲げ、地場の現実を見下す」傾向にあったというわけです。そして、「辺境」であるがゆえに、中心を崇めて、その文化や風習を取り入れ、自分たちなりに改良するテクニックを身につけることができました。しかし一方で、自らが中心となるという立場やそこから標準を設定し、主張することはできなくなったというのです。戦後の日本が国際社会において欧米に追いつくというキャッチアップモデルを掲げ、見事に復興を遂げた姿はめざましいものでした。とはいっても、トップに上り詰めるとどう処してよいか分からなくなってしまい、バブル経済がはじけて以来、存在感が薄れてしまったという歴史に重なる話です。
そもそも日本はずっと、中国を手本として崇め、さまざまなものを持ち帰り、日本流にアレンジしながら日本文化を形作ってきたと言えます。それが明治維新を契機として、手本を変え、欧米列強をその目標としました。そして、大きな戦争で敗戦を経験し、戦後はアメリカが師匠になったという話になります。日本の医療を振り返ると、まさにこうした歴史がよく理解できます。中国やインドの古い医療の体系を取り入れ、独自の日本の医療を形成していたところに、蘭学から新しい西洋医学が雪崩を打って導入されます。明治の中頃には、日本の医師は西洋医学を学んだものにしか免許を与えないという仕組みを作り、東洋医学は一段低いものと位置づけられてしまいます。多くの養成校である医学部はドイツ医学を取り入れ、ドイツ語が医師にとっての必須科目となりました。そして、戦後はアメリカです。
しかし、そうした西洋からの流れを中心に据えているにもかかわらず、患者さんの受療行動や医師の治療選択を欧米と比較すると、かなりの違いがあることにも気づきます。たとえば、臓器移植です。欧米では心臓移植が重い心臓病の治療の選択肢の一つとして確立されており、移植される臓器が不足する事態になっています。この移植臓器が必要という医療ニーズのせいではないと思うのですが、蘇生に反応しない場合に臓器の提供に早期に移るシステムができあがっており、日本のような延命治療がほとんど行われていません。
また、スウェーデンなど北欧では、高齢者が口から栄養補給ができなくなったとき、長い議論の結果、経管栄養や点滴による補給はしないようになりました。食べられなくなった高齢者に無理に栄養を入れることは彼らの尊厳を逆に傷つけると国民と医療者たちの間で共通の結論に達したからだと聞いています。
また、オランダやベルギーでは、無理に延命をさせるような治療を差し止めるという尊厳死だけではなく、厳しい条件の下ではありますが、意図的に生命を終わらせる行為を人為的に行う安楽死も法的に認められ、医療者が罪に問われることはない体制が取られています。
同じ状況の人間に対して、国が違えば、医療者の対処が変わる、つまり治療方針が違うということです。私はその背景にある文化の違いについて思い描いていて、先の日本人論はそうかと納得する答えを与えてくれた気がしました。
「辺境」の視点からすると、私たち日本人は物事を断定することが苦手です。つまり、確定的に決めつけることができない特性があります。これが正しいと考えるけれども、相手の言い分にも一理あることが分かるし、立場が違うとそのように考えるようになることも無理はないなぁなどと理解を示してしまうのです。その方式ではなかなか物事が決まりません。人間としては良い人になりますが、どこか、頼りない印象が残ります。そうです。外交における日本の現状はこの特性を遺憾なく発揮しているようですね。
でも、こうした特性は、私は大切にしたいと思っています。お金の多寡が人間の価値を決める唯一の基準になっているような欧米社会の動きから少し距離を置き、何だか頼りないが、それなりの立場、存在感がある国になればよいのではないかと思っています。医療の世界でも、臓器移植に抵抗を示し、一方で、延命治療にこだわるという日本の医療現場の現実を否定的にとらえず、それはそれなりに一つの見識を示していると考えれば、意味があるようにも思います。もちろん、財源問題や、そもそも社会保障や医療制度をどう考えるのか、根本的な問いかけに国民がこぞって参加し意見を述べるべきではありますが、少なくとも欧米をモデルとして、諸外国にならう必要などないと思うのです。
内田氏の語り口でいえば、「日本はこんな変な国なんだから、無理して『普通の国』になろうと空しく努力するよりも、世界に冠たる変わった国の人間にしかできないことを考えていく方がいいんじゃないか」ということになると私は思っています。