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2013.08.01

人とのつながり(2013-8)

 

年齢を重ねると、身体の不調が次々に出てきて、情けなくなることが多くなります。しかし、一方では、今まで気づかなかったことに気づくこともありますし、いわゆる社会常識として語られていることや年輩の方の言葉が急に現実感と切実さを伴って分かるようになったりもします。つまり、今まで、自分で分かっているつもりだったことが実はうわべしか理解していなかったことが判明するのです。こうした体験は、ある意味、なかなか刺激的でもあり、年取ることは悪いことばかりではないなと思ったりします。

 

特に私が最近感じていることは、「人は一人では生きることはできない」ということです。若い時なら、年上の人から「お前一人で生きているわけじゃないんだから、もっと周囲の人に感謝しなきゃぁいかん」と説教を食らうと、「そりゃそうですよね。身の回りのものは誰かが作ってくれたものだし、どこに行くにも何をするにも、誰かのお世話になっていることくらい分かってますよ」と憎まれ口をきいていたかもしれません。「人様のお世話になる」ということは、実はそういう生活での「モノ」や「情報」といったつながりだけのことではないことを、年とともに強く感じるようになってきたのです。

 

個人的なことですが、私の外科医としてのキャリアを例に考えてみます。医師免許をもらいたての頃は、傷口を縫うことでも緊張したものです。それが、先輩方に教わりながら徐々に、自分で人様の身体に傷を付け、状態を改善させる目的の「手術」をするようになります。簡単なものから次第に難しい複雑な技術が必要になっていきます。それが人並みにできるようになってくると、「妙な」自信が生まれてきます。「妙な」といった理由は、その自信はさまざまな試練によって、もまれて完成されたものではないにもかかわらず、間違いないという強い気持ちに支えられているからです。後から思えば、から元気のようなものです。その時期には、病気やケガを自分が「治す」のだと思っていました。「何でもかかってこい」と今考えると空恐ろしいくらい、自信に満ちていました。
それが、毎日多くの患者さんに接して、さまざまな状態に遭遇すると、「こりゃ、一筋縄ではいかないぞ」という気持ちが芽生えてきます。自分が持っていた「自信の塊」が、実は、「砂上の楼閣」のように危うい存在であることが分かり始めたということです。そうすると、治療を行い、患者さんを良い結果を導くために自分が持っている手札が意外に少ないことに気づきます。手術が万能の力を持つような錯覚から夢が覚めるように、現実の複雑さというか、こみ入り具合が何とも手強い相手であると実感するようになってきたのです。
そうなると、「治す」という治療側の積極的な態度が間に合って、効果が得られる状況というのは実は少数であって、ほとんどの場合、その人が自分の力で「治る」のを邪魔しないことこそ、診療の大切な基本だと思うようになりました。自分が関わることで、「治す」のではなく「治る」力をそがないように援助するという姿勢です。
こうしたことが身に染みて感じるようになると、自分が他の医師とは違う特別の存在のような錯覚にとらわれる時も出てきます。手術で治せると思い込んで一生懸命だった時、「自分しかできない」、「自分がしなきゃ誰がする」と意気込んでいました。「余人を以て代え難し」といわれることに喜びを覚えるという感覚でしょうか。最近では「不可欠意識」という表現も使われるようになっています。加藤秀俊氏の「隠居学」からですが、「自分が組織にとって『不可欠』である、と思う気持ち」と定義されています。自分がいなければ、組織は成り立たないという自信でもあります。
医師は「治す」のではなく「治る」サポートすることに気付いたのは自分だけだと思うようになると、一回りしてまた元のところに還ってきたようなものではありませんか。
自分の技術や自分の考え方、また、そこでの位置や存在が重要であると信じすぎることは、時にこうした独善の論理に人を引き入れる危険性があります。かといって、「苦労を自分が買うのはイヤだ」「誰かがそのうちするだろう」「放っておくとはけしからん」と自分を埒外において、自主性を持たない依存的な生き方も問題です。
私の場合でも、振り返ってみると、自分が頑張ることで何かを見つけることや自分がいることで成り立つことがあるという自負を持つことは重要だったと考えられます。「自己重要感」を持つということでもあります。それは「自分のことを『価値ある存在』だと思えること」です。また、「自分がかけがえのない存在だと信じることができる能力」と言い換えてもいいと思います。「不可欠意識」と同様に「自己重要感」も行き過ぎると、何でも自分がいなければうまくいかないと思うようになり、周囲と折り合いの付かないやっかいな存在になりかねません。
自分が自分に対して、自信を持つこと自体は悪いことではないはずですが、こうした気持ちが行き過ぎると、独りよがりになってしまい他者への感謝を忘れがちになることになります。自分は自分にしかできないことを追い求めながら、そのことによって自信も育てる。それと同時に、そういう自分になってきたこと自体、さまざまな周囲の人に助けられていることを自覚し、感謝するというバランスの取れた生き方が求められると思うのですが、それは言葉で言うほど簡単ではありません。
生きているうちには、何かトラブルが起こったり、不本意にも巻き込まれることも起こります。ことに自分でコントロールすることができない事態になると、大きな不安が生まれます。その状況では、一気に自分に自信を失うことはありがちです。自分が社会にとって意義ある存在であると思えなくなり始めると、もっと深刻には、自分は存在しない方がいいのではないかと、きわめて危険なネガティブな思いにまでとらわれてしまうことすらあります。
自分に対する自分自身の気持ちというか自己評価はこうして大きな幅の間で振れることになります。そのアンテナをちょうど良い辺りに自分でセッティングできるかどうかが、生きることの上手な人と下手な人との違いではないかと感じています。
年齢を重ねて、先人が残した教訓の意味が身に染みるようになってくる頃、社会的には、その役割が縮小していくという皮肉で逆説的なことを、長い人間の歴史は繰り返してきたのだろうなと今思います。「不可欠意識」の強い社長や会長は、自分がいなければこの会社はすぐに潰れると確信し、周囲の思惑には一切頓着せず居座ることになります。
「顧問」は「来ん者(こんもん)」で、しょっちゅう来られても困る存在だと認識できる人は「可欠」人間なのですね。つまり、自分の存在は重要でも、別に自分がいなくても何とかなるとも思える気持ちのゆとりです。それは、人に「自己重要感」を感じてもらえる言葉や行動を自分が実行することで得られる気がしてなりません。自分が「自己重要感」を持つには、人に「自己重要感」を感じてもらえる言動をつねに心がけるということになります。
執念を持って仕事をしても、それが妄執になってはならず、人に愛情をかけても、それがその人に対する束縛になってもいけないわけで、ホントにそのさじ加減が難しいですね。
いずれにしても、「人とのつながり」、これがなければ、生きてはいけません。そのためにも、自分の良いところを見つけるようにしつつ、同時に、周囲の人に関しても良いところを探すようにしたらいいのかもしれませんね。



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