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2013.04.01

『年を取る』ということ(2013-4)

大人たちにとって、つねに、自分たちの世代より若い次の世代以降の人たちは分かりにくい存在です。自分たちが育った時代の常識が通用しません。そのため、いらだちを感じることも多く、時には波風も立ちます。昭和の終わり頃、若者たちは「新人類」と表されました。当時の大人たちにとって次の世代の若者たちとのギャップが大きく、受け入れがたかったのです。若者たちには共通した感性や価値観、それに基づく行動様式がありました。その前の世代からすれば、自分たちの感覚とあまりに異なっていて、どう付き合っていけば分からず、大きな戸惑いがあったのだと思います。
 その後も、大人たちから分かりにくい次の世代の若者たちは「バブル世代」や「ゆとり世代」などと評されたりします。「最近の若い者は、」で始まる年寄りの繰り言が、奈良時代に建てられた古い建造物の落書きとして見つかったという話を聞いたことがあります。結局、いつの時代でも、大人たちは若者との世代間のギャップにため息をつきながら暮らしてきたのだと、人類の繰り返しの歴史に苦笑するしかありません。
きれいな瞳を輝かせて、自分の夢を語り、そのために努力している姿を見せてくれる頼もしい若者もいますし、顔を合わせても、「おはようございます」と挨拶ができない人や、何か人に助けてもらっても「ありがとう」が言えない人にも出会います。こんなことで、日本の将来は大丈夫なのだろうかとつい大げさにも心配してしまうことも一度や二度ではありません。でも、そんなことを感じている自分たち自身が若い頃、上の世代に「どう付き合っていいのか分からん」と嘆かせていたのだろうと思うと、その心配は杞憂に終わると思いたいです。世代交代が次々と繰り返されてきた途方もない流れの中で、現代だけが、特殊とはならないと思うからです。年齢とともに老いていき、社会を動かすイニシャティブが次第に次の世代に移り、年寄りはぶつぶつ文句を並べる程度の抵抗しかできず、最終的には彼らを残して死んでいくのです。こうした時の流れを誰も止めることはできないのですから、ここは割り切って若者たちのことを気にするより、自分のこれからのことを考えなければならない気にもなります。

 

私自身、年齢を重ねるにつれ、髪の毛が薄くなり始め、目がかすんで、新聞の記事が眼鏡なしでは読むことが難しくなってきました。会話の中で、固有名詞が出てこなくて、苦しむことも多くなりました。約束の場所や時間を忘れてしまい、慌てたり、お詫びに走り回ったりすることもあります。その上、歯の具合も悪く、これまでなら平気でかみ切っていたものが食べられなくなり、とても優雅とは言えない食べ方になってしまいます。食べこぼしもあるようで、いつのまにかシャツやネクタイにシミが付いていて、情けなくなります。

教で語られる四苦「生老病死」を思い出します。自分の思いではどうにもならない四つです。さらに、愛する人と別れる苦しみ「愛別離苦」、恨み憎んでいる相手に出合う「怨憎会苦」、求める物が得られない苦しみ「求不得苦」と五蘊(人間の肉体と精神)が思うままにならない「五蘊盛苦」が加わり八苦となるとされています。難しい宗教的解釈は分かりませんが、生まれ落ち、生きている人間がすべからく老い、そして、病んで、最後には死を迎える、その歴史に苦しみがあるという発想は理解できます。この流れは、避けることはできず、すべての人間がたどる道筋です。一人の人間がどんなにあがいても、どうにもなりません。それだからこそ煩悩となるのでしょう。こうした時間とともに起こる人間の変化は確かにどうにもなるものではありません。しかし、この事態をどのように受け止め、自分なりに時を過ごしていくかは、決して同じではありません。人によって大きな違いがあるように思います。

 

「生き方」「老い方」「病み方」「死に方」にその人が凝集され、まさにその人そのものとなります。それは、その方の生死観を見事に映し出したものです。生命や人生、そして死についての個人の価値観が違うから結果的に、一つとして同じ「生老病死」はないということになるのでしょう。さらに言えば、その違いは「生き方」が決めていると言っても言い過ぎではないと思います。「生き方」が、どんな年の取り方をしていくかという「老い方」にも、病気になったときにその事態をどう受け止め、消化し自分なりに対処していくかという「病み方」や、最後の時をどのように迎えるかという「死に方」にも深く関係し、その様相を決定づけていく大きな要因となると思われるのです。極論すれば、どのように生きるかによって、どのように老い、どのように病んで、どのように死んでいくかが規定されるということになります。
そうすると、現時点での「生き方」を考える上で、「今」という時間、「ここ」という空間、そして「自分」という主体が何よりも大切になると思います。どんな人生を選び、どのような心を持って生きているかが自分自身の将来を決めるのです。私たちは毎日生きていると、常に決断を迫られています。そのたびに右か左か、選択し、その方向へ舵を切って生きていきます。正しいとか、間違っているということではなく、そうした一つひとつの決断や選択が自分自身の「生き方」を決定づけていきます。

 

私は、そうした決断において、一番大切なことは「自分らしい」かどうかではないかと思っています。健康でありたいと願う人は多くいますし、健康食品の会社は大きな利益を上げ、健康関連のグッズの売り上げは相当のものだと聞きます。人々の関心は健康で長生きに集中しているようです。中には「健康のためなら死んでも良い」と考えているのではないかと思えるほど、健康になることに夢中な人がいます。もちろん、私は、健康ブームを否定するものではありません。身体が健康であることは安定した生活の基本条件と考えるのは当たり前です。こうした健康増進の考え方は、病気は病気になる理由があるからで、そうならないためにはその原因をなくせばよいという発想に基づいています。

 

太り過ぎや運動不足は高血圧や動脈硬化と深く関連し、血管の状態を悪くします。そのために詰まったり、破れたりしやすくなるということです。心臓で血管が詰まれば「心筋梗塞」ですし、脳の血管が詰まれば「脳梗塞」です。脳の血管が破れると「脳出血」となり「脳梗塞」も「脳出血」も「脳卒中」で、身体が麻痺して言うことが効かなくなる麻痺を引き起こします。これを恐れるから、運動をして体重コントロールしタバコは止めて、食事内容にも気を配るという対策を取ります。こうした予防策は重要ですが、あまりに厳しい制限はその方の人生の値打ちを下げることにもなりかねません。
一方、健康を阻害する原因をやっつける健康増進策ではなく、健康であるためにその人を健康にすることをさらに追求するという方策もあります。自分にとって大切なものを守り、育てていくことに多くのエネルギーを費やすことを是とするのです。つまり「自分らしさ」を徹底して追求するのです。この理屈では、たとえ、睡眠時間が短くなっても、大した栄養が取れない状況が続いても、自分の立てた目標へ全力で努力することを勧めます。そうした過程自体が、その人の生きる力を強固で大きなものにする原動力になると考えられるからです。

 

健康についてのアドバイスはさまざまな種類であふれています。私は自分自身の「老い」を自覚しながらも、健康を阻害するものを排除する努力だけではなく、生きる力を与えてくれる活動に全力で取り組もうと思っています。つねに「自分らしさ」を考え、追い求めるということです。その作業に没頭しているうちに、「老」の次の段階にさしかかると思うのです。覚悟を持って「生きる」ことに集中し、「自分らしさ」を追い求める姿勢でいる限り、次の段階である「病・死」を静かな気持ちで受け止めることができると確信しています。



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