読み物BOOKS
読み物BOOKS
2014.06.01
人が人に接するやり方には天地ほどの差があります。これほど優しく、情愛を持って、自分のことより相手を思いやって行動する場合があるかと感動を覚える時があると思えば、端から見ていても理不尽で無神経に人を傷つける言動を重ねる人を見ることもまれではありません。
個人によっての違いではなく、制度や体制自体に問題があって、一定の立場の人が不当な扱いを受ける事態から、今のように各個人が一人の人間として尊重され、権利が保障されるようになったのは、それほど古いことではありません。人は人に対して時に目を背けたくなるほど残酷に振る舞うことができます。奴隷制度があった時分、アフリカから黒人が商品として売られ、「奴隷船」で家畜と同様の扱いを受けながら北米に運ばれました。農業に従事させる労働力としての存在ですから、まさに家畜と同じです。その後人種差別撤廃の流れの中で、最終的に彼らが、投票権を得るに至るには、幾多の困難があったのはご承知の通りです。
植民地獲得に血道を上げた19世紀、世界中で、列強による侵略がありました。北米では、原住民であるアメリカンネイティブの人たちは、白人たちの西部への侵攻で、それまで守り続けてきた土地から追われましたし、中南米では、スペイン人たちが伝統文化を破壊し尽くしました。
ナチスドイツのヒトラーは、優性思想からユダヤ人の大量虐殺を行いましたが、その時、障害者に対する弾圧も行ったことはあまり知られてはいません。
捕虜に対する非人道的扱いは古代ローマから現代に至るまで本質的にはあまり変わっていないというべきでしょう。私の義父は、平壌で事業を営んでいましたが、終戦を迎え、シベリヤに抑留されました。引き上げの最後の船で何とか無事に帰国して、家族と一緒の生活ができるようになったのですが、あまり詳しくその時の体験を語ってはくれませんでした。しかし、義母から「お父さんが使う敷き布団や毛布のちょうど足の部分だけが、いつも毛羽立ち、生地が先に傷んでくるのよ」と聞かされて、極寒の地で、作業をさせられ、夜はたった毛布一枚で冬を越すというすさまじい体験の一端を知ることができました。
戦時においてだけではありません。罪を犯して収監されている囚人に対しても同様の対応を聞いたことがあります。中国で、彼らの臓器が臓器移植に提供されていたというおぞましい情報です。
南アフリカでは、アパルトヘイトがあり、社会的に有色人種は白人と区別され、交通機関から食堂まで、また、住宅区域まで定められ、自由を奪われていました。弁護士として働く若い日のガンジーが車掌に電車から放り出されて、人種差別に対する抵抗運動を始めました。ネルソン・マンデラは、同じ黒人たちが受ける不当な対応に憤りを覚え、人種差別撤廃に向けて非暴力の活動をしますが、仲間たちが政府の軍人たちに銃撃されて多数の死者が出たところから、戦いを始めます。そして、逮捕され投獄され、自由を勝ち取るには27年の歳月を必要としました。
この世に生まれて、親に育てられ、教育を受けて、社会に出て、自分で自分の職業を選択して生活を設計し、幸せな家庭を築くことができる社会では、その一つひとつの権利が保証されていることになります。民主主義社会で、投票権が認められれば、自分がいいと思う政治家を選ぶこともできます。医療においては、どのような治療を選択するか、自分で決めることもできるのです。
このような権利や自由は、先に述べた不自由な社会を経験し、血を流してまで勝ち取った経験のある社会と、自分たちが苦労することなしに他者からいつの間にか与えられ、いつしか当たり前になってしまった社会では、その価値をどうとらえるか、大きな違いがあるように思います。そして、私は「日本」という国は、幸か不幸か、後者の過程をたどった国ではないかと思うのです。
民主主義における投票権が大きな意味を持つのは、自分たちが選んだ政治家のしでかす過ちは、彼らを選んだ国民、すなわち自分たち自身に返ってくるという仕組みの理解ではないかと思うのです。悪いことが起こるとすべて、他者のせいにし、声高に問題点をあげつらうことは誰にでもできるでしょう。しかし、それを自責的にとらえ、自分たちにできること、自分たちが変えなければならないことは何だろうと考える姿勢を持つ人は今の日本では少数派に思えてなりません。
医療において、自分が情報を取り、自分で方針を決めることが世界的な臨床倫理として推奨されています。自己決定権は尊厳を守る意味でも、何よりも尊重されるべきだという考え方です。しかし、その倫理が成り立つには、民主主義における投票の責任と同様に、選ぶ以上背負わねばならない責任を覚悟したものだけに適用されるものだと思います。自分が選んで、結果が思わしくなければ医療者に原因を求め、犯人捜しを行うのは、自分も決定に参画した当事者であるという自覚に欠如した小児の行動原理です。とても自立した成人の取る言動ではないと私は思います。
他責的な生き方から、自分にも責任があると腹を据え、ともに難局を乗り切るという意識がこれからは求められると思うのです。「私受ける側、あなたする側」という依存的な依頼は、結果が悪いと「私被害者、あなた加害者」という二項対立構図へと持ち込みがちです。本来その2者は対立するのではなく、ともに一つの目標に向かい解決を目指すはずです。新たな時代のために、今一度、自分たちが持つ自由のありがたさを噛みしめ、同時に背負うべき責任や義務について、思いをはせる必要があると感じています。