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2014.09.01

報道のあり方とその接し方(私論)(2014-9)

 朝日新聞の誤報問題が世間を賑わせています。「街場のメディア論」の著者内田樹氏はその中で、「そもそもメディアは、本能的に変化を好みます。社会が変化しなければ、メディアに対するニーズがなくなるからです。だからメディアは、有名政治家が失言したり、朦朧会見することを望み、乱が起きることを待望し、あらゆる社会システムに『改革』を要求して、社会制度の変化を無条件に良いことだとして、常に変革を求めます。」と論破しています。
確かに、マスメディアは、変化を好みます。それがなければ、ネタがないのですから、それは仕方のないことかもしれません。犬が人を噛んでもニュースにならないが、人が犬に噛みつくと記者が飛んでくるというあれです。確かに、議員や社長、教育者に医者など偉そうな立場や権威が失墜する出来事には大きな関心を寄せ、高い熱意を持って報じる傾向があります。今回の誤報の表明は、その事態の持つ国際的で、社会的な影響の大きさとは別に、巨大である種の階層にとって絶対的な価値を有する「朝日新聞」がしでかした出来事であるというインパクトの大きさが重なったために、これまでの報道とは次元の異なる規模で、批判的なエネルギーが集中しているように思います。
 しかし、「朝日新聞」に対して攻勢を強め批判するものも、マスメディアに属するもののとしては、なかなか難しい面もあります。それは批判の対象と同質の傾向を自らも持っているという構造があるからです。同業者の報道やそのあり方について、個別の事項に限り具体的に非難しているうちは論理的に破綻することはありませんが、そうした問題を生んだ背景や環境、メディアとしての責任の所在や存在意義などという根本的で抽象的なことを論じようとすると、とても困難なことになります。自分たち自身に対する批判を含めて、覚悟して語るか、それとも、自分たちを除いて、第三者的に語るしかなくなるのです。そして、ほとんどの場合、後者の方法論を選択することになります。つまり、自分を埒外に置き、眉をひそめて「こんなことが許されていいのでしょうか」と訴えかけるような手法となるのです。
こうした振る舞い方は、さまざまな報道の現場にて見ることができます。事実を語るだけではなく、そこに何らかの受けた印象をかぶせ発言するとすれば、自分自身の心をいったん大多数の大衆に受け入れられるものに置き換え、正義の味方のような第三者的な立場を取ります。そして、常にあきれたかのように批判するやり方を採用するのです。

 

NHKは「公平・客観・中立」を報道のモットーにしていると言います。それに忠実に従うことは可能でしょうか? おそらく不可能だろうと思われます。ひとり一人の人間は異なる価値観を持ち、異なる人生を歩んでいます。そこで培われた精神、つまり脳の中身は同一のものであるはずもありません。とすると、一つの事象を人が説明するのはすべて主観になります。自分の立場で語る「超主観」こそ、私は報道の原点ではないかと思います。そこでは、その見方に自分自身が投影されていることを明らかにしている分、それへの反対意見を受け入れる批判可能性が内在していますし、つまり、自分の言っていることには自分が責任を持つと明言していることにもなります。たとえ、支持者が少ないとしても、自分自身の意見を堂々と述べて、それに対する批判を仰ぐやり方は、私にとって好ましい姿に思えます。
私は、自宅で、ほとんどテレビを見ません。ことに、民間放送はやかましくて苦痛です。スポーツの放送を見る程度です。しかし、ドライブの間などはラジオをよく聞いています。テレビとラジオは、全く違うメディアであると強く感じます。テレビの場合、その放送番組の内容というより、音の大きさや効果音や音楽の使い方、そして、これでもかという出演者の字幕などの仕掛けがいかにも押しつけがましく、耐えられないのです。番組制作者の意匠というのか、こうすればとりあえず受けるだろうという浅い予測に基づく制作の意図が透けて見えるのです。対象としている視聴者像としては、自分たちが制作している番組をどうせ暇つぶしに見ているだけだという軽さ、もしくは侮蔑的意識があるような気さえ受けます。それはどの放送局というのではなく、広く民間テレビ局の制作現場に行き渡っているようで、常に変わらぬ定型的な作りを繰り返しています。
一方、ラジオはそのような押しつけを感じることはあまりありません。どちらかといえば、控えめで、聴取者の聞こうとする姿勢がなければメッセージを受け取ることができない仕組みがあります。そして、語られる「言葉」に関して、使われ方がテレビより丁寧だという印象があります。映像がないために、表現がよく練られているということでしょうか。
テレビのそうした特性が一定の受け手を安心させている側面も否定できませんが、少なくとも、これまで以上の視聴者の反応があるという話は聞きませんし、次第に存在意義が薄まり、数少ない支持者によってのみ受け継がれる情けないものと成り果てていく予感を持っています。
要は、自分が手に入れた情報を元に、人が解釈し、解説した手垢のついた理屈ではなく、自分自身の頭で、その事象を考える材料となることがメディアに求められている気がしてなりません。料理で言えば、すでにできあがり、暖めるだけの完成した調理作品を提供するのではなく、良質の食材とその調理例を示し、後は選んでもらえる仕組みがあればと思うのです。

 

朝日新聞の今回の出来事は、いわゆる権威のある報道機関から出たものであっても、批判精神を持つことなく、頭からまるままを信じることの危険をはっきりと示してくれた点で、とても価値のあることではなかったのかと感じています。情報の受け手の成熟を促進する機会となればいいのにと個人的には思っています。



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