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2015.01.01
私が医学部を卒業し、国家試験に合格して医籍登録され、医師として仕事を始めたのは1978(昭和53)年のことです。卒後の研修を外科系研修で受けて、2年間は一般外科と麻酔を学びました。整形外科を本格的に選択し、取り組んだのは、3年目以降です。
研修先は、大阪城や難波宮跡、そして、NHK大阪放送局や府警本部が近くにある法円坂の国立大阪病院(現国立病院機構大阪医療センター)でした。大きな総合病院ですから、外科病棟に入院してこられる患者さんは紹介の方ばかりで、診断がつかない難しい病気や珍しい症状の人、そして、治らない病気の方がほとんどでした。中でもガンの方が一番多かったです。胆石などの一般の病院で対処できるものは、送られては来ません。盲腸と呼ばれる虫垂炎などは、付属看護学校の学生がならない限りお目にかかることなどありません。
ガン患者さんの場合、当時はご本人に病名を告げることは一般的ではありませんでした。担当医はご家族の中から適切な人を選び、診断名やその後の治療計画を説明します。高齢のご夫婦の場合など、必ずしも配偶者に告げることが第一選択ではなかったということです。したがって、患者さんはご自分の状況を知らないままに、または、事実とは異なる病名を知らされて、手術や抗がん剤の点滴を受けておられることになります。
研修医である新米の医師の仕事は、ともかく毎日受け持ち患者さんのところにいくことでした。まるで御用聞きのようです。訪室の前に、先輩医師から指示を受けます。「こういう説明をしてくるのだ」と伝えるべき情報を教わります。経験がないため、不安で、患者さんと二人になることを避けたい気持ちがありました。また、患者さんからの質問に答えられない自分であることは間違いなく、負い目があるため、素っ気ない対応になることもしばしばで、患者さんの目を見つめることはできなかったと記憶します。そして、いつも早々に病室を出ていたように思います。
ガン患者さんには抗がん剤による治療もあります。その点滴をするのは、新米医師の仕事でした。看護師さんから行ってらっしゃいと背中を叩かれるように、ボトルを持って詰め所を出ます。病室に行き、注射の準備をするのですが、「おはようございます」という挨拶はしても、それ以上の会話が続かず、弾むようなことはありません。今なら、「今日は気分どうですか?」「昨夜は眠れましたか?」と話しかけるでしょうが、その当時は、どんな話につながるか不安で、避けていたのです。誠にだらしない医師です。
中でも印象に残っているのは、30代、40代という若い世代のガン患者さんです。進行の早いガンでは、手術室で開腹したもののお腹の中にガンが充満していて、すぐに閉じるしかないという症例もありました。麻酔が覚める頃に、病室の時計の針を回しておいて、時間が経過したように見せかけるということも経験しました。当時のガン病棟には「嘘」がいっぱいありました。
彼らには幼い子供たちがいました。小学生や就学前の幼児が外科病棟にお見舞いに来るのはあまりあることではないために、その事情を思うとかわいい子供たちの仕草が、逆に切ない気持ちにつながり、病気や人生の不条理を物語っているようで辛かったのを思い出します。
下っ端の医師である私だからこそ、点滴で訪室したときに、話しかけられることもありました。「先生は一番下なんやろ。私の担当医はどうも本当のことを話してくれそうにないねん。私はガンなんやろ。長くは生きられへんねんな。誰にも言えへんから、ホンマのこと教えて。」 もちろん、担当ではない患者さんに自分の判断でみんなが隠してきた診断名を告げるわけにはいきません。といって、先輩の医師たちのようにとぼけることは上手ではありません。答えに詰まる私たちの態度から、彼らは、信じたくない真実を知る羽目になるのでした。
点滴をしていると「先生、この注射、抗がん剤なんでしょ。」と聞かれたこともありました。「いえ、これは、栄養剤ですよ。あまり食べていただかないために、点滴で栄養を入れているんです。」と答えます。少しトーンが上がった口調で「でも、栄養剤で髪の毛がこんなに抜けるかしら?」と問いかけられるともう逃れる術はありません。「そんなに抜けるんですか?」と慰めにもならない問いをして、その場を何とか凌ぎ、そそくさと病室を後にします。
後に、整形外科医になって、当時のことを思い出すたびに、患者さんに嘘をつくことを後輩にさせることはしないようにしようと誓いました。その代わり、辛い話をどのように伝えるか、スタッフみんなと協力することが大切だと思うようになりました。
医師になって、15年が経過した1993(平成5)年に、私は初めて、海外の医療現場を視察する機会を得ました。当時、経営や職員研修でお世話になり、指導を受けていた社会医療研究所所長の岡田玲一郎先生の主催される北米ツアーに参加したのです。その時、カナダのオンタリオ州トロントで、一人の老年病学の医師の講義を聴くことができました。彼はDr. William Molloyと言います。人が最期を迎えるときに、自分が望むケアを受けることができるように、自分の意志を伝えることができるうちに、信頼できる代理人と共に議論し、文書を作成し、サインをして残す方式を提案していました。事前指定書というもので、その方式を「Let Me Decide(私に決めさせて)」と名付けていました。
これは衝撃的でした。医師が患者さんによかれと思ってする判断が、本当に正しいのか、私は分からなくなりました。ケアとは誰のためにあるのか、医師は自分の価値観を人に押しつける権利を有しているのか、いつも、「長く生きること」が正しい選択肢なのか、自分は誰のために医師として仕事をしているのか、さまざまな問いかけが生まれました。
そして、この「事前指定書」が必要なのは、自分が自分の意思を伝えることができるうちは、自分で言えばいいが、言えないときのためにあるのだという説明に驚きました。病名や治療法、それぞれの特徴、そして、これからの予測される経過など自分の病気について、医師が患者さん本人に情報を伝えることが当たり前でした。その前提のもと、自分の希望が自分の口から伝えられない状況になって初めて、この書類が意味をなすのです。
本人より先に配偶者、子供たち、親といった家族に病気のことを話すのは、本人の個人の情報を他者に漏らすことになるから、治療上知り得た事実を外に出してはならないという倫理上の「守秘義務」に反する行為だというのです。それでは日本の医師を始め、医療者は倫理にもとる行為ばかりしていることになります。
その教えを受けて、帰国してから、岡田玲一郎氏に協力し、早速この考え方を広める活動に参加しました。しかし、当時の日本では、講演のタイトルに「死」という単語が入っているだけで眉をひそめられ、受け入れを拒否されるような事態が相次いだのです。たとえ、「あなたらしい最期」という表現でも拒否されました。「死」を公然と語るのは許されない雰囲気が残っていたのです。死が不浄のものであり、忌み嫌われる事態であるという感覚が根強かったのだと思います。
それが今では、そのようなことはなくなりました。しかし、世界の常識との距離は依然として乖離したままです。
「尊厳死」という言葉があります。西洋社会では、たとえば、無駄な延命治療はもはや優先されることはありません。積極的な延命処置をしないで迎えた最期は「自然死」と受け止められています。日本では、これを「尊厳死」と扱います。尊厳死協会によると、「尊厳死の宣言書」ではその一番に、「私の傷病が、現代の医学では不治の状態であり、既に死が迫っていると診断された場合には、ただ単に死期を引き延ばすためだけの延命措置はお断りいたします。」と記されています。まさに欧米の「自然死」に相当する表現です。
では欧米で「尊厳死(Death with Dignity)」という言葉はどのような意味を持つのでしょう。それは、積極的に人為的に命を縮める行為が伴う、日本流で言えば「安楽死」のことを指すようになって来ています。日本と世界の間の認識にはこのような違いがあることは知識として知っておくべきだと思います。
彼らの考え方が正しいとか、間違っているという議論をしようとしているのではありません。私は、「その人がその人らしく生きること」それを支えるのがケアだと学んできました。そして、その延長線上に「その人らしい最期を送ること」があるとすれば、延命に関わる処置を差し控える行為や、いったん装着した装置を外すことも検討に値すると考えているだけです。
人は必ず死にますし、それを避けることはできません。その状況をできるだけ納得できるものであるように、決して家族のためではなく、ご本人のために、最大限の努力をするのがケアに当たる人間の責任ではないでしょうか。そのためにも、病状を包み隠さず伝えて、どれくらいの時間が残されているのかも含め、予測できるあらゆる情報は丁寧に分かりやすく、ご本人にこそ告げるべきだと思っています。
ある意味で、「わずか20年」の間にずいぶん環境は変化してきました。これからの20年がどのような意味を持つのか、自分自身の目で確認したいと思います。そして、ヘルスケア機関の責任者として。患者さん自身が自分の人生を精一杯生き、そして、自分らしい最期につなげて欲しいし、それをサポートできるスタッフを育てなければと思っています。