読み物BOOKS
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2016.08.01
2年前の2014(H.26)年4月に亡くなった作家の渡辺淳一氏は、私と同じ整形外科医でした。そのせいでもあるのでしょう、何となく仲間意識を持って作品を読ませてもらっていた気がします。彼は札幌医大に勤務中に、同大学の和田教授によって行われた本邦初の心臓移植を題材にした小説を発表しました。やや批判的な視点からの作品で、内部告発と受け止められても仕方がない内容でした。そのこともあって、大学をやめ、作家活動に専念しておられます。
当初は医療分野にテーマを持つ作品が多かったのですが、後年、恋愛ものを次々に発表し、ベストセラーをいくつも産み出しました。その頃から私自身は少々興味を失ったのではありますが、「失楽園」は1997年の「新語・流行語大賞」にも選出されたほどの話題作でした。その彼が2007(H.22)年に「鈍感力」というエッセイ集を出版して、ミリオンセラーとなりました。その後、集英社文庫から文庫本としても発刊されています。
アマゾンでの内容紹介によれば、「シャープで、鋭敏なことが優れていると世間では思われているが、本当にそうなのか !? 医師としての経験や作家としての眼差しを通じて、些細なことで揺るがない『鈍さ』こそ、生きていく上で最も大切で、源になる才能だと説き明かす。恋愛関係、夫婦生活、子育て、職場、環境適応能力…。様々な局面で求められる鈍感力とは何か。先行き不透明な現代を生きぬくヒントが満載。ミリオンセラー、待望の文庫化。」とあります。
皆さんは、本当に生きていく上で「鈍感」であることが大切だと思いますか?
大きな仕事を成し遂げる人は「鈍感」であると主張する人がいます。確かに、何かをやり遂げようとして、いちいちくよくよしていたり、へこたれていては前に進むことはできません。物事を前向きに捉える力が必要であることはよく理解できます。しかし、それは「鈍感」という言葉で表現できる資質ではないように思うのです。
「鈍感」によって、ストレスを感じず、幸せになることと、「敏感」が故にストレスを浴び辛い思いをすることを比較すれば、私は、断じて後者を選択したいと思います。いくらしんどい生き方だとしても、気が付くことが大事だと私は思います。気が付かないことで幸せになるというのは、どこかズルをしているような感じを受けるからです。
私は運転することが好きです。そして、安全に、それでいて早く走るためには、他の車の走り方、つまりその車のドライバーが何を考えて運転しているのか、予測することが大切だと思っています。しかし、高速道路で、走行車線が空いているのに、ゆっくり追い越し車線を走る車には、戸惑います。何を考えているのか分からないのです。仕方なしに走行車線から追い越すことになります。その時にちらりと運転席を見ると、携帯電話を耳に当て、楽しそうに話しているのが見えたりするのです。
運転の時だけに限りません。自分以外の人が何をしようとしているのか、その想像力を持ち予測することは、大切なことに思えてなりません。他者の動きを予測すれば、手伝ってあげることができるし、危険を避けることができるかもしれないからです。しかし、現実には、そういう想像を働かせる人は少ないようです。むしろ他人の思惑に頓着しないことが当たり前になって来ているように感じます。
西洋の社会には日本と異なるマナーがあります。そのすべてが、日本人にとって心地よいものであるはずはないのですが、中には私たちも取り入れればいいと思うものもあります。たとえば、ドアの開閉での心遣いです。彼らは自分がドアを通り抜けた後で、後ろに人がいるかどうかを必ず確認します。勢いよくドアを開けて進んでいくとしても、みんな後方に気を配るのです。後続の人がいると分かると閉まりそうになるドアを少しの時間支えて、その人のための道を空けてあげるのです。そして、その親切を受けた人はみんなにっこりとして、“Thank you.” と感謝を伝えます。これは本当に気持ちが良い習慣です。
自分の行動が他者に影響を与えているという意識を持つことは、「鈍感」な精神では培うことはできません。もし、「生きていくだけでこんなに大変な世の中なのに、人のすることなどいちいち気にしてはいられない」というのが、今の日本人の心の中にあって、それが「鈍感力」というエッセイをベストセラーに押し上げた要因だとすると、何だかあまり楽しくない世の中ではないように思います。
でも、自分が他者のためにさまざまな配慮を重ねたにもかかわらず、それが正しく報いられていないと不満に感じることが要因になるとすれば、そういう方には私は、あきらめないで欲しいとメッセージを送りたいのです。
「敏感」である自分が損をしていると感じ、「鈍感」に憧れるのは、頭の中のことにとどめて、周囲の人たちにも「鈍感」ではなく、気付くことの大切さを伝える努力を続けていただきたいのです。
「敏感」な自分を「鈍感」に変えることで、悔しく、悲しく、辛くて情けない思いをしなくて済むと考えるより、「敏感」なために、そうしたマイナス体験を蓄積してしまう自分だからこそ、そこから大きな学びを得ることができると解釈してはどうでしょうか?気付かない自分になれば、何もかもハッピーで楽しい人生になると本当に思いますか?
ことに、医療や介護に携わる人たちには「敏感」であることは必須条件のように感じています。口にはしないけれども人が簡単には解決することができない問題を抱えているかどうか、その気配を感じることは、この職業をする上での基本的な素養ではないかと思うのです。だからといって、もちろん、快刀乱麻の解決をすることができるわけではありません。しかし、少なくとも、本人が抱えきれない思いでいる辛さのそばに存在することはできるわけです。何もできないでいても、厳しい環境にある人に寄り添うことは、ケアというものの本質ではないかと思うからです。
「老人力」という言葉もありました。年齢からくる衰えが生むさまざまな出来事をマイナスにとらえるのではなく、プラスに考えようという趣旨でした。これは自分も65歳を目前にして、高齢者の仲間入りなのでよく理解できます。
しかし、「鈍感力」は解釈の仕方を間違えると、人のことなど気にしないで生きる方が気楽だよというメッセージとなり、社会や人間の営みが生む複雑な出来事を感じたり学んだりする機会への窓を自ら閉ざす、もったいない生き方になるように思うのです。
私は世の中で何となく受け入れられている「年寄りは鈍感だ。」という評価を残念に受け止めています。生きている限り、自分の周囲で起こる事柄に関心と好奇心を持って生きていきたいと思っています。