読み物BOOKS
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2017.11.01
携帯電話というか、スマートフォンはすごい勢いで普及しているのを感じます。電車を待つホームや乗り込んだ後も、かなりの割合で操作している人を見かけます。カフェでお茶する人も、時には歩いている人や運転中の人まで、小さな画面に目をこらして、キー操作をしたり、頷いたり、笑みを浮かべたり、そんな姿は珍しいというより、むしろ当たり前の普通の風景になっています。
要は電話だったはずなのですが、それが電子メールなどで、他人の意思や情報などを伝達するために利用されるようになりました。さらに、単なる電話ではなく、一台のコンピューターという位置づけで使いこなしている人が増えてきました。電話をかけたり受けたりは当たり前で、時計として、タイマーとして利用することも可能です。メールやSNSでの他者とのやりとり、そして、自分の予定や日記として手帳の役割も果たします。カメラとして使えるのは、本当に便利です。さまざまな外部のソフトを載せれば、旅行の予約や調べ物も容易です。最近、私は万歩計代わりに、その日の歩数を見てはおもしろがっています。
でも、良いことばかりではないようにも感じます。テレビと同じで、操作している人の集中ぶりは、人を寄せ付けないというのか、画面に食い入るようで、大丈夫かなと少し、怖くなるときがあります。イヤホンを耳に当て、一心に操作している姿は、外の世界を意図的に遮断し、孤立することを指向しているように見えてきます。
皆さんも、こうした道具の恩恵を十分に感じて、活用なさっていると思うのですが、今日は、その問題点を私なりに考えてみました。それがこの孤立ということです。便利な道具が普及し、待ち合わせのすれ違いなどということはなくなってきたに違いありません。活用できる手段が増えることはいいことですが、その反面、血の通った人と人との交流が徐々に薄まってきているのではないかと思うのです。
コミュニケーションでは、「言語」と「非言語」という2つの手段で情報を交換しています。言語は、文字通り、言葉を用いた相手とのやりとりになります。自分の意見や考えなどを相手に言葉で伝えます。でも、両者の間のコミュニケーションは、この情報の発信だけでは成立しません。まずは、伝えようとした情報が相手に届かねばなりません。つまり、伝えられた言葉を理解することが前提となります。文章では「読む力」、会話では「聞く力」が要ることになります。その上で、内容を読み取り、場合によって、質問して、不明な点を明確にすることで理解を補強します。
対面していると、さらに、表情や声のトーン、ジェスチャーなど「非言語」の情報が追加されるため、理解が進むことになります。いつも日常で行っている人と人のコミュニケーションですが、まとめると、話すにしても書いて伝えるにしても、言語によるコミュニケーションは、理解が前提であり、その確認のために質問があり、さらに、非言語の方法がその理解を促進し、補強するということになります。
では、携帯電話での通話やメールやSNSでのやりとりはコミュニケーションに役に立っていると思われるでしょうか?
事務連絡のようなことに関しては、本当に有用であることは私自身も助かることが多いので、よく分かります。しかし、本当に大切なこと、または意見が食い違っているために議論をしなければならないような状況においては、これらの道具はむしろ使うべきではないというのは私の意見です。
私たちの職場で、会社内でのメールのやりとりができる仕組みを導入したのは、もう20年前の1997(H.9)年のことです。その頃はキー操作も不慣れな人が多くて、職員全員が使いこなしていたわけではありません。
こうした仕組みに抵抗のない医師や技術者たちが率先して使い始めました。中でも、ある医師はこれを積極的に利用していました。毎日のように、さまざまな部署にメールを発信します。仕事がやりやすくなるように、受付の作業手順を変更して欲しいと言った要求も、また、業務の流れの中で生じた問題点を指摘する意見もありました。さらには、管理者に対して、この職場の誰それが、こういう噂に振り回されているので、注意して欲しいという告げ口のようなものまで配信されるようになりました。
指摘をされた当事者の直属の管理者は、そのメールに反応しました。どのような状況でのことか、確認し、指摘が一方的であると感じたことから、当初から反感を持ってのやりとりになったのです。お互いのメールでの応酬が続きます。忙しいもの同士でしたので、直接会う時間を作るのが難しかったのかもしれません。会わないでやりとりをする分、反応がエスカレートします。売り言葉に買い言葉といった状況になり、残されたメールに書かれた言葉は、とても読み上げることはできないほど過激で、度を超したものになりました。両者がエキサイトし、興奮が興奮を呼んだのでしょう。
後半の内容を初めて知った私は、驚きました。医師や管理者が憎しみあって、良いケアが提供できるはずがありません。私の前で話しができるように場面をセットし、二人を呼びました。最初はぎこちない挨拶から始まりましたが、驚いたことに、わずか5分間で、両者は笑みを浮かべて、私の部屋を退出していったのです。
この出来事以来、私は少しでも、メールのやりとりの中で食い違いが生まれたら、直接会って、確認しなければならないと確信しています。
電子機器がどんどん普及し、それを活用できるよう社会のネットワークも整備が進んでいると思います。でも、上にご紹介したような初歩的なすれ違いによる仲違いは回避できているのでしょうか?
人と人との間の距離が近づくことは、今の時代、あまり歓迎されないように感じます。逆に、離れて欲しいと近づくことを疎まれるようにすらなっています。でも、人は一人では生きることはできません。何か成し遂げようと思っても、一人でできることはたかがしれています。つまり、人は人の助けがなければ、何もできないのだと思います。
科学技術がいくら進歩しても、それによって人と人が本当につながることはないと思うのです。つながる機会を作ってくれることはあるかもしれませんが、相手と分かりあい、一緒に歩もうと思える仲間作りには、役立ってくれそうにはないでしょう。
となると、アナログの世界です。フェイスツーフェイス、顔を付き合わせ、できるだけ多くの情報をやりとりすることが不可欠となります。一生懸命言いたいこと、伝えたいことを発信する。聞き手は、相手からの情報をともかく聞く。そして、疑問に思ったことを尋ねて確かめる。そのやりとりの最中も、お互いに相手が出す言語以外の情報として、表情や動作も参考にして、理解を進めて行く方法という、原始的な方法しかないのではないでしょうか。
便利な道具をうまく使いながらも、確認が必要な場面では、機械に頼らず、体温を感じる距離で肉声を交わし、交流の中から何かを見つけていく作業が求められると思っています。
耳からイヤホンを外し、できるだけスマートフォンやテレビの画面から眼を離しましょう。移りゆく景色や季節により異なる自然を眺め、機械ではない生活の中の音に耳をすませば、何か、今まで気づかなかった新しい発見がきっとあるのではないかと思っています。