読み物BOOKS
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2017.03.01
活字中毒症状のある私は、ベッドに入って、濃いお酒を舐めながら、本を開かなければ、眠れないという毎日です。どんなに酔っ払っていても、本を開きます。せっかく、読む体勢が整っても、結局1頁も読むことなしに、明かりを消すときもあるのですが、それは習慣であり、一種の寝る前の儀式になっているのでしょう。飲まないままグラスに残ったウィスキーで、翌朝、部屋自体が甘い香りに包まれている事があり、あまり酒に強くない嫁さんは、臭いだけで酔っ払ってしまうのではと心配になります。
そんな私が、昨年の秋、新潮文庫からの船戸与一著「満州国演義」というものを読み始めました。歴史ものということになるのでしょうが、面白くて引き込まれ、夢中に、読み進んだのですが、途中からはいささか、しんどくなり、読了には、少々無理をしたところがあります。
第1巻の「風の払暁」から、「事変の夜」「群狼の舞」「炎の回廊」「灰塵の暦」「大地の牙」「雷の波涛」「南冥の雫」「残夢の骸」と全9巻の大作です。題名の通り、日本の近現代史、つまり太平洋戦争が中心となった作品です。
小説ですから、創作された家族が中心となり、フィクションとしての物語が展開します。その時代の出来事については関わり合った実在の人物が登場し、ノンフィクションの迫力があります。作中では、創作された人間だけが会話をする人間として存在し、実存者は伝聞情報やメディアを通して、彼らの意見が書かれ、読み手に届くという構成となっています。
その中で、関東軍のある特殊部隊に触れた箇所がありました。私には、作品を何とか読み終えた後も澱のようにその部隊の任務の内容が気になり、いろいろ調べてみました。それは、捕虜などの人間を使った人体実験のことです。ナチスで行われていたユダヤ人に対する人体実験を模したものなのでしょう。そこで行われた行為の詳細は、とても人間が人間に対して行ったものとは思えず、調べていても、読み続けるのに、相当の覚悟が要ります。そして、読み終えると、心の中に溶けない塊が残るのです。同業者である医師が、同じ人間に対して、どうして、こうした「実験」を行うことができたのでしょう?絶大な権力を持った立場の人間からの命令だから、逆らうことができず、嫌々、渋々、涙を流して行ったのでしょうか。それとも、唯々諾々と、淡々と命令に従い任務を実行したのでしょうか?
科学は戦争があるたびに進歩を遂げると誰かが書いていた記憶があります。薬剤の致死量や感染の対処など、恐ろしい意図で行われた成果が医学の分野に残されています。
戦後、こうした残虐な行為が公表され、ドイツの戦争犯罪に関する裁判が開催されました。ナチスゆかりの地ニュルンベルグで行われたこの裁判で、「人道に対する罪」が個人の戦争犯罪として定義され、審議されました。そこから1947年に、医学的研究のための被験者の意思と自由を保護するためのガイドラインとして「ニュルンベルグ綱領」が生まれました。この綱領の冒頭で「医学的研究においては、その被験者の自発的同意が本質的に絶対に必要である。」と書かれています。
医師が合法的に残虐行為に加担した事に衝撃を受けた医師集団が、1947年にWMA(世界医師会)を立ち上げます。世界医師会のホームページでは「世界医師会は、医師の独立性を確保して、崇高な倫理的基準に則った行動と医療を、いかなる場合にも実行できるようにするために創設された。」と書かれています。
そして、こうしたことを二度と繰り返さないため1948年には「患者の人権擁護が医療倫理の第一」というジュネーブ宣言を行います。その第10項目には、「私は、たとえ脅迫の下であっても、人権や市民の自由を犯すために、自分の医学的知識を利用することはしない」と宣言しています。
その後も世界医師会はさまざまな宣言を出しています。新しく開発されたクスリや技術の臨床現場での応用については、動物だけではなく、人体に試すことが必要でもあり、ヘルシンキ宣言では、そうした人間を対象とする医学研究の倫理的原則を扱いました。そして、マドリッド宣言では、こうした倫理を医師個人の責任だけに帰することにせず、医師の自律を支える医師集団の組織としての役割を規定しています。そして、この倫理は時には、法を超えて、守り通すべきものとされています。今年の秋には、今世界医師会の会長に、日本医師会の横倉義武会長が就任することが決まっています。戦時下の医師による非人道的行為の反省に立ち、医師が人権をつねに擁護するという倫理を確立するために大きな役割を果たした世界医師会です。この機会に、日本医師会から、この倫理について、医師に向け、再認識できるよう情報を発信し、啓発に努めていただきたいと思います。
日本の近代の医学史は西洋医学を中心に展開されてきました。ことに、医師を養成し、教育する大学の役割は大きかったと思います。しかし、教育と研究、さらには臨床という医学における三つのいずれの分野を、一つの機関がバランスよく網羅的に行うことは難しいといわざるを得ません。2004年、医学部を卒業し、国家試験に合格したばかりの若い医師たちが、どのように一人前になっていくのか、大学における研修ばかりではない仕組み「新臨床研修制度」が取り入れられました。公立、民間を問わず、レベルの高い診療を行っている市中病院を研修先として選択する医師たちも生まれました。そして、今、専門医という資格のあり方が問われ、新たな仕組みが設けられようとしています。
忘れてはならないことは、医師の仲間が過去に、信じられないような人権侵害を侵したという事実です。人が苦しんでいるとき、助けを求められる立場にいる人間として、いかなる特殊な状況においても、二度とこうしたことを繰り返さないよう、教育を行い、未然に防ぐような体制を作らねばならないと思っています。
科学技術が進歩し、また、あらゆる分野に商業主義がはびこる時代となっている今だからこそ、あの出来事を風化させず、自分たちの責任を再確認しなければなりません。医療における医師の守るべき倫理の重要性はいくら強調してもしすぎることはないでしょう。患者さんの人権を守り、治療や介護において、彼らの利益を最優先に考える姿勢が求められていると思うのです。
しかし、その方針を守り抜くのは、容易ではない環境でもあります。社会保障政策を行うための財源の問題がのしかかります。科学技術の進歩や増え続ける医療・介護ニーズの高い高齢者の存在は、制度の先行きを危うくしています。財源のない中、誰もが必要なときに必要な医療・介護サービスを受けることができる体制を整えるには、さまざまな工夫が求められるでしょう。
そして、個人の生き方に沿ったケアのあり方を実践するには、持続可能性を持った制度の確立とともに、私たち医療・介護に携わるものたちの使命感や責任を自覚した行動が基本的な条件の一つとなります。さらに、ケアを受ける側である患者・家族の方々には、現状を正確に把握し、ケア担当者の姿勢を理解し、ともに困った状態に立ち向かう仲間として、一緒に悩み、行動する姿が求められると思うのです。
この三つの条件のうち、一つでも欠けると、現場でのご本人主体のケアは成立しません。仕組みの上でも、また、ケア受給者からもこのタイプのケアが評価されない状況が続けば、ケアの現場で苦労しているスタッフたちに息切れが起こります。辛い体験をうまく乗り越えるために、ご本人・ご家族と私たち現場の人間が、相互に相手に対する敬意を持ち、信頼を持ってうまくつながり、ケアが実践できれる、そんな体制が構築され、継続されることを願うばかりです。