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2017.04.01

医療現場の倫理 (2017.4)

2006(H.18)12月に新しい教育基本法が成立し、その前文では「公共の精神」を尊ぶことが掲げられ、第2条「教育の目標」として「豊かな情操と道徳心を培う」ことなどが示されています。戦前には「修身」が筆頭教科に位置付けられ、戦後GHQにより、国史・地理と並び軍国主義教育として授業を停止する覚書を出しています。この経緯から日本における「道徳」は、戦争に結びつくものとして批判的に受け止められる傾向があります。

しかし、その歴史的な問題を別にして、厚労省が強調するように、「生命を大切にする心や他人を思いやる心、善悪の判断などの規範意識等の道徳性を身に付けることは、とても重要」だと思います。

この「道徳」というのは、人としての道であり、いわば、万人が認める社会規範と考えられるでしょう。一方、私たち医療者にとって、日常的に規範について用いる用語は「倫理」です。「倫理」は、「道徳」とは異なり、社会の中で人間として生きていく場合の自己規範です。したがって、「道徳」を基盤にしつつも、相手との関わりの中で起きた矛盾を解決していくため、後から考えた規範でもあります。

診療を行う現場において、「倫理」上の問題は毎日のように発生しており、そのたびに、どのように判断するべきなのか、悩みながら、一つずつ解決しようとしているというのが現実の姿でしょう。それは、時代とともに変化するものでもあります。

たとえば、治療方針の決定です。私が医師になった当時、先輩医師たちについて、医師としてのイロハを学びました。外科系の研修ですから、手術が行われる場合、術前に本人やご家族にその処置の説明が実施されます。といっても、それは驚くほど簡単なものでした。外来診療の中で、「これは手術しないと治らないので、いついつ入院で手術します。あとは看護師や事務員から説明があるので、よく聞いてちゃんと準備してください。」でおしまいです。当時の外科医にとって、素人に手術の内容を詳しく説明することなど、時間の無駄という感覚だったのだろうと思います。それよりも、本人の信託に応え、治療に全力を尽くすことが重要と考えておられたに違いありません。

私の師匠も、この点ははっきりされていました。「どんな手術なのでしょう?」という質問に、「あなたに答えて、何の意味があるというのか?」とさっさと説明を終えられたこともありました。今となっては、医師の態度が傲慢で、不親切だと大ブーイングを受けるような対応です。しかし、本人・ご家族はお辞儀をして、「先生、どうぞ、よろしくお願いします。」と挨拶をして退室するのです。

上下関係のようで、患者・医師関係としてはなっていないという見方もあるでしょうが、見方を変えれば、究極の信頼関係とも言えるかもしれません。実際、先輩医師たちが、外科医として診療の手を抜いているようなところは一切ありませんでした。術後の経過が思わしくないときなど、連日のように徹夜で診療に当たられ、自分が患者のすべての責任を担っているという重圧感が側にいる私にもひしひしと伝わってきました。

あとで勉強すると、これはパターナリズムといわれる意志決定の流れでした。元はといえば、紀元前の医学の祖と呼ばれる「ヒポクラテス」の教えから来たものと思われます。医学部の教育でも取り上げられる「ヒポクラテスの誓い」には、「私は能力と判断の限り患者に利益すると思う養生法をとり、悪くて有害と知る方法を決してとらない。」(小川鼎三氏訳)という一節があります。受け持った患者さんの病態を考え、最善と思われる治療を選択しなさいという医師の職業倫理ともなる内容です。この姿勢は、まるで、父親が子どもに対して取る行動のようだとして、この名称で呼ばれています。自分に任せておきなさいと全権委任を自ら迫るようなものでもあります。

 つまり、患者さんや家族には、専門的な詳しい内容を説明することなく、医師は自らの判断で治療を行い、そして、同時に、その結果の責任も担っていたことになります。ですから、この当時、ガンに関しては病名を告げることはしないのが通常でしたし、再発など進行したガンや、他の疾患の終末期においては、医療者はつねに、「治るのだから頑張りなさい」と励ますことが仕事になっていました。

その後、インフォームド・コンセントという考え方が欧米から輸入されてきました。医学的な情報は本人にきちんと告げて、治療方針の選択は、医療者のアドバイスを参考に、最終的には本人が決定することで、両者が同意に至る流れが推奨されるようになったのです。そのためには、医療者が知り得た情報はすべて本人に告げることが原則となります。そして、自己決定の原則に従って、その結果についての責任は、医療者とともに、「自己責任」という概念が生まれました。

その後、ことに終末期のケアにおいて、この自己決定を尊重するばかりでよいのかという議論が生まれることになります。医学的情報とその解釈は医学を学んだものにしかできません。そして、その状況に一番適した最善の対処を考えることができるのも医療者にしかできない業務でしょう。一方、個人の生き方、価値観、大切にしているもの、などの本人にしか分からない情報が、方針決定に関連することもあります。この両者の意見をすり合わせて、個別のその方独自の最善の対処を見つけて、同意の上、実施するのがポイントとなってきました。

医学的最善の方法が本人の考える個別的な最善と重なり合えばよいのですが、これが食い違い、医学的最善をしないという選択をしなければならない状況が時に起こります。エホバの証人の方々に対する「輸血」の問題です。彼らは、自らの命が危険になり、輸血により救命が可能であるとしても、その処置を受けることを拒否します。そして、それを施行しなかった医師の責任を免除する書類を準備して処置に臨みます。現状ではこの選択は容認できるものとして医療現場では、一般的に受け入れられるようになっています。

しかし、その逆の場合はどうでしょうか?医学的には不要であり、むしろ病態を考えたとき人体に有害であると予測される治療を患者本人が希望するというような状況です。個人の意思を尊重するために、この処置を行うことが「倫理的」なのでしょうか?

今一般的には、その判断は受け入れがたいとされています。医学的な立場から、それは倫理的ではないと判断されれば、本人の希望を拒否することもむしろ医療者の責務ではないかと想定されるようになってきたのです。個人の意思を尊重すること、自己決定の優先順位を高く置くことはコンセンサスが得られていると思うのですが、その権限が過大になりすぎると、こうした問題も起こってきます。

 道徳を基盤にした倫理は、医学技術が革新し、新しいものが出れば出るほどその重要性が増してきます。その技術をどんな風に、どのような例で使っていくことにするのか、導入の段階から慎重な議論が必要となります。新しい技術に伴い、私たちに課題を突きつけてくるという図式です。一つひとつの問題に真摯に取り組み、話し合いを積み重ねる以外の方法は今のところ思いつきません。

 ともかく、医療者と患者さんやご家族が強い信頼関係でつながってこそ、こうした技術が適切に社会に適用される仕組みを話し合うことができると思いますし、その意味で、難しい問題の解決に、共に歩んでいかねばならないと強く思うこの頃です。



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