患者を甘えさせたのは誰だ

 患者さんの要求は勝手である。もちろん、すべての患者ではない。しかし、こうした患者が増えてきた。自分の都合通りに行かなければ、「俺は客だ。金を払っているのだから、大事にせよ」と特別の待遇が当たり前であるかもような態度を取る。その傾向は「患者さま」などと呼び始めてから強まってきたと思えてならない。
 彼らは「自分だけは待つことが耐えられない」「自分は特別な存在である」「自分の言うことを聞かない病院は悪い病院である」と決めつけている。そのくせ、文句をいいながら、不思議なことに、同じ施設へ何度も足を運ぶのである。「この病院が気に入ってるさかい、文句の一つも言いたなるんやんか」などと発言するが、要は、自分を大事にして欲しいだけである。かまって欲しいだけでもある。周囲の方々も待っているのに、彼らは自分だけが待っているかのように訴える。誰かが何らかの働きかけをしないと、相手にされず無視されていると感じるらしく、文句を付け始めるのである。
 しかし、そういう患者は医師の前ではあまりそうした態度を取ることは少ない。受付の事務員や看護師を対象として存在を主張する。そうした輩は、たいていベテランを避ける。比較的若くておとなしそうな職員を捕まえては、「遅い。遅い。何とかせぇ」とせっつくのである。そのくせ、いざ診察となると、自分の時間は長くなることを何とも思わない。重要な情報は後回しとなり、前回受診から今回までの報告に終始する。最後の方で、治療方針に影響する状況の変化が出てくる。聞くことに疲れていると、聞き逃す可能性が高くなる。下らぬ話の連発で閉じかけた耳を慌てて開き、「うん?今なんて言うた」と聞き返すのである。彼はこちらのこうしたちょっとした隙を敏感に感じ取る。「聞くことは大切やいうて院長がいつも話してるいうけど、その本人が患者の話を上の空ではあかんのとちゃいまっか?職員がちゃんとしてないのは、そのせいでっせ」などと痛いところをぐいぐい責めてくる。腹立たしさを押さえながら「あんたの眼鏡にかなう病院には当分なられへんかもしれんで。日赤病院はどうや、いつでもちゃんと紹介状書いたげるで」と何とか、よその施設への紹介を試みる。「近くやからな。我慢して、また来るわ」まったく、どうにもならない。
 患者さんの医師像は無謀である。もちろん、すべての患者ではない。その時々の自分にとって、都合のよい医師像を目の前の医師に求めようとする。それを、一人の人間に求めても無理であることを理解しようとしない。慢性疾患を治療してもらっているときには、じっくりと悩みを聞いてくれる医者を求める。しかし、自分が急いでいるときには事情が異なってくる。いつもは「診察時間が短い。ここの医者はすぐ出ていけといわんばかりや」と不平を並べていた人が「診察なんかええから、はよいつもの薬出してぇな」と受付で大きな声を出している。そんな人が転倒して外傷を受けると、うるさくて仕方がない。レントゲンを早く取れだの、順番を進めろだの、やかましく騒ぎ立てる。
 麻酔の注射だというと、「痛いでっか?」「どこに打ちまんねん?」「大きい注射でっか?」「何分かかりまんねん?」などと子供でも聞かないようなくだらない質問ばかり矢継ぎ早にする。はじめからこちらの答えを聞く気はないのである。何とか注射から逃れる口実を捜しているに過ぎない。相手にせず刺そうとすると「待っとくなはれや。殺生だっせ。患者の言うこと、聞く病院て書いたぁりますやん」とのたまう。自分に都合のよいことを見つけることにかけては天才的である。「いややったら、消毒だけにしよ。そのかわり膿んでもしらんで」そのとたんにおとなしくなるから不思議である。ようやく麻酔である。ここまで幼児性の強い人は珍しいとしても、似たような反応は結構経験する。
 入院して手術が必要だとなると、患者さんの求める医師の条件は変わってくる。当たり前のことだが、手術の腕がよい医師を求めるのである。外来で相手してくれていた医師にその能力を求めるから、ミスマッチとなる。医療職である私たちには、自明の事実がある。人あたりが良く、気配りができて、患者の話をじっくり聞いて診療する医師で、手術のうまい医師というのは滅多に、いや、ほとんどいないということである。さらに、手術の腕の良い医師で、リハビリテーションに関する理解があり、知識も豊富で、スタッフとの連携も十分に取れて、的確な指示を出すことのできる医師にもほとんどお目にかかることはない。さらに、手術を担当した医師で、退院に備えて在宅調整に協力して行動してくれる医師も少ない。患者さんのその時のケアのニーズに応えて、一番ふさわしい専門職を当てることが優れた対応だが、患者さんは、同じ相手に始めから最後まで面倒を見てもらうことを求める。よい結果を生むための体制について、医療職と彼らの要求との間に大きなギャップが存在する。医師に対してのこの課題は、そのまま施設の課題ともなる。
 つまり、患者さんの病院に対する要求も無謀である。手術した病院で元気になるまで入院しているのが普通と思っている。したがって、平均在院日数にこだわって、十分な説明をせず、相手の理解がないままに退院を指示すると、「追い出しだ」などと非難されるのである。病期によって最適の施設があることを徹底して伝える努力をしなければ、患者さんやご家族の病院に対する期待と私たちの意図との差は埋まらない。高齢者の急性期施設への入院も、時に、ご本人にとってミスマッチであり、よい結果を生まない場合がある。こうした事実を日常から伝え、理解を求める仕組みがいる。
 「先生手術してくれはるんでっか?」今でも外来を続けていると、こうした奇特な患者さんに出会う。「いや、私はもうできへんねん」「何ででんねん?一回覚えたら忘れまへんやろ」「どうしても、私がええんか? よっしゃ、7年ぶりやけど、本読みながら、やってみよか」「もうよろしいわ」現状を伝えるのは、誠に骨の折れる作業である。