邪な所行の再生産

立花隆氏の「『田中真紀子』研究」の帯にはこう記されている。「田中真紀子礼賛の本でもなければ、ストレートな真紀子批判の書でもない。主人公はむしろ、田中角栄であり、日本の政治そのものといってもいい」立花氏は、今の日本の政治が持つ最大の問題は「角栄の遺伝子」にあるとして、生物学的な「真紀子問題」と、「日本の政治システム、あるいは政治マインドの上に残された角栄の遺伝子の問題」とを上げた。
 後者の分析が私の関心を引いた。角栄が、政治の本質である「利害の調整」に力を発揮し、政界において確たる地位を築くことになったのは、1971年の日米繊維交渉であった。当時、第三次佐藤内閣で角栄は通産大臣に任命された。首相である佐藤は沖縄返還を果たし、「戦後」の幕引き役をしたいと考えていた。しかし、交渉成立には、貿易不均衡が障害となっていた。アメリカの貿易赤字はドルの平価維持が困難というほど累積していたのである。不均衡解消に向けて、アメリカの攻勢は激しかった。その象徴となっていたのが線維問題で、アメリカは日本に対して輸出の自主規制を迫っていた。日本側は国内産業保護の観点からも、その要求を簡単には飲めない。両者の主張は平行線をたどり、交渉は暗礁に乗り上げていた。その時、佐藤は通産大臣に就任して僅か3ヶ月の角栄にその状況の打破を命じた。角栄は、基本的にはアメリカの要求は飲まざるを得ないと考えた。そのかわり、強い影響を受ける国内の繊維業界には、被害額を算出し、これを十分に補償する救済策を打ち出した。対外折衝を進めながら、対策費を増額して出すよう大蔵への国内交渉も進めたのである。
 この補償額が半端なものではなかった。輸出制限がなければ得ていたと思われる利益を含んだ相当額を出した。いわば「札束でほっぺた方式」の大判振る舞いをして、文句を封じ込めた。製造を制限した証拠として、機織り機械を廃棄すれば、それを補償することもした。業者によっては、倉庫にしまってある老朽化した機械を磨いて持っていったという。明らかなインチキである。政治家は税金を使い、業界を保護し、業界に「貸し」を作り、選挙を中心に自分の政治活動をしやすくした。一方、業界はこの保護政策を拡大解釈して、自分たちの実入りを増やした。こうした政界と財界の利害の一致により、公金である税金の使い道が拡大し、また、チェック機構が働かず、曖昧となっていった。現在話題となっている道路公団などの公共事業もこうした構図を当てはめることができる。
 こうしたシステムは、政府の補助金に絡む事業には少なからず関連している。情けないことだが、これが公金に関する日本人の基本姿勢かもしれない。現に、最近の狂牛病(BSE)での対応においても、その体質が証明された。外圧に迫られて困った業界が、政府(政治家)に泣きつき、公金の投入により助けられる構図である。不正受給もいわば常態化している。担当した政治家は献金や業界団体の選挙支援といった形で見返りを受け取る。こうした仕組みでは、お金はいくらあっても足りない。経済が右肩上がりで一定の税収が確保できた時代にのみ許されるシステムである。問題は、こうした大判振る舞いを、当然のこととして未だに要求する団体があること、さらに、業界には、ばれなければ不正にそれを受給してもよいとする体質が残っていることである。また、各業界を代表する団体の長の能力は、こうした金を引き出す力で測られる。たくさん金を付けてもらった方が、優秀な親分と評価されるのである。「自立」とはほど遠い体質である。
 われわれ医療業界では、診療報酬をカットされるような会長は、利益誘導に失敗したとしてその資格が問われることになる。しかし、逼迫した日本の財政状況からすれば、節約できるものはするべきであることは間違いがない。できるだけ金をかけずに、高い質を保証するシステムが望まれている。これを可能とするのは、業界の自立度合いではないかと思われる。政治交渉としては、正直すぎるかもしれないが、自分たちの業界にある無駄を認め、それを減らしながら、一方で質を確保するよう自主的な基準を設けるような自浄作用を持った活動が期待される。
 筑豊地域のある診療所が、一日外来患者数600人で、一月の診療報酬は3億円を超え、院長は長者番付の常連であるという話を聞いた。彼の診療では、患者は医師に話しかけてはならず、さっさといつもの物療や処置をして帰っていくよう指示される。患者さんの大半は、生活保護で医療券を利用しての受診である。彼らは、医療にかかる費用負担を免除されている。今回の医療法や健康保険法の改正の影響を受けない。これは、本当に必要な医療なのだろうか? 来院頻度の多い整形外科が、今回ダメージが大きかったといわれる。毎日受診を必要とする病状とはどんなものだろうか? 欧米に比して圧倒的に多い一人あたりの外来受診回数はいったい何を意味しているのか?それが国民の健康を守ることになるのか? 主張の妥当性は乏しい。
 政界への陳情型の活動はもはや意味を持たない。角栄遺伝子への決別である。必要なケアはするが、不必要なケアはしないという姿勢を明らかにして、無駄を排除し、自ら質の確保を約束する体質が求められる。これで、業界が自立を目指せるのではないか? それには、公金を最大限に活用するために、必要な対象に、適正な処置を、正しい場所で、適切な方法で提供するという原点を確認する必要がある。これが利用者に支持される唯一絶対の方策であろう。それには、経営者自身が自立しなければならない。そのリーダーシップにより組織自体の自立が進む。地域における医療需要が絞り込まれてきたとき、受け持ち範囲での卓越したケアを完成させるとともに、継続的なケアを実現するために他者との連携は不可欠である。その連携は自立した組織間でのみ、成立し、意味を持つのである。