最悪のスパイラル

 「仕事中、後ろから子供がすごい勢いで当たってきて、それから腰が痛くなり、翌日には左の脚全体がしびれてうずいて、困ってます。今年になって、その症状が強くなってきて、昨日なんかちっとも眠れませんでした」45歳の女性保育士の訴えです。「そりゃ大変やな。その子供が当たって来たんはいつのことや?」「去年の9月です」「えらい前のことやんか。これまでどうしてたん?」「近所の接骨院で電気してました」「それで、仕事は?」「ずっと、休んでます」少しイヤな予感がしましたが、診察です。
 神経の障害はありませんでした。「シビレ」という症状には、原因が二つあります。一つは、神経の障害から起こるものです。触れたり(触覚)、ピンでつついたり(痛覚)、アルコール綿でこすったり(温覚)すると、その神経が担当している領域での感覚がおかしいことが確認できます。神経は、非常に正直です。地図のように担当領域が決まっています。丁寧な検査によって、どこが傷んでいるか推測できるのです。もう一つの「シビレ」は循環障害によるものです。このシビレでは、さわった感じは普通です。しびれた感じがするだけです。目が覚めると手がしびれていたけど動かすと治ったとか、正座後の足のシビレがそれに相当します。彼女の場合、後者のシビレのようでした。
 レントゲンでも年齢相応の変化の他、特別な異常所見はありません。「後ろから押されたことをきっかけに、筋肉の循環障害が起こり、安静主体の対応をしたために、筋力も低下した。そこで、少しの活動で痛みが起こってしまうから、また安静にする」という「悪循環」に陥っていると考えました。治療の第一歩は、まず、痛みを取ることになります。そこで、効果的な痛み対策は、痛いところに注射する方法であることを説明しました。即座に「注射はいやです」と断られます。早く運動療法を指導したいと思う私としては、次に薬(鎮痛消炎剤)の内服を提案します。「だいたい胃が弱くて、薬は受け付けないんです」とその方法もダメでした。「困ったなぁ。痛かったら運動できへんやろ。しやけど、眠られへんくらいの痛みは、辛いやろ」どうしたものか考えていると、「先生、うちの園長から、公務災害の申請に診断書書いてもらえと言われました。お願いできますか? 痛みが取れるまでゆっくりしたらええし、公務災害で生活はいけるやろと言われて、」ここで、彼女の受診理由が明らかとなりました。同時に、腹が立ってきました。民間の職場で果たしてこんなことが許されるでしょうか? 女性の職場として、保育士も看護師も介護職も、前屈みの姿勢が多く、また、抱えたりするような動作もあって腰に強い負担がかかります。仕事によって痛んだ身体を補償する制度は必要でしょう。しかし、あまりに過剰なセイフティーネットは本人の治す意欲をそぐことは間違いありません。
 社会における効率性と平等性の関係についての話を思い出しました。あまりに不平等な社会では、本人がいくら努力しても評価されないため、勤労意欲が低下し効率が落ちる。反対に、完全平等の社会では一人一人の努力が対価に反映されず同じく、社会の活力は低下し、効率も下がるというのです。不平等から完全平等までの間に、もっとも効率が良くなる「程良い平等さ」というものが理論的には存在することになります。適度な緊張を持った制度の選択と、その適正な運用の難しさを痛感します。