にげ場を断つ

 首相の在任20周年を祝う晩餐会の席上で「私は国民の意識を変えることができなかった」と、彼は失望と悲しみを表明し、自分の失政だと述べました。マレーシアのマハティール首相の話です。マレーシアは多民族国家です。中国系、インド系、そして、マレー系の人々がそれぞれの風俗・習慣を守りながら共存して生活しています。
 私はなぜかこのマレーシアという国が好きで、これまで何度か訪れています。首都のクアラルンプールは、100万都市です。450bと世界一の高さを誇るペトロナス・ツインタワーや421bのKLタワーがあり、高層ビルの建ち並ぶ近代都市です。この大都市にも古くからの彼らの生活が残っています。多民族国家ということは、言語も宗教も異なる人たちが一緒に暮らしているということです。国教はイスラム教で、尖塔のあるイスラム寺院のモスクが町のあちこちにあります。宗教の自由は認められており、ヒンズー教の派手な寺院も、キリスト教の教会も、道教の華やかな中国寺院も混在しており、独特の雰囲気です。
 中でも元気で活気があるのは、中国人街です。朝早くから夜遅くまで多くの人が通りを行き交い、名物の露天商には人だかりが絶えません。清潔感はありませんが、そこで口にする食べ物は、どれも私の好みで、何種類にもトライすることになります。狭い路地には古い家並みが続き、異文化を強く感じさせます。洗濯物や子供たちの遊ぶ姿に、生の彼らの生活を垣間見ることができます。
市場では、肉や魚が日本とは違うディスプレイで並べられています。肉の新鮮さをアピールするためでしょうか、魚と同じように落とされた頭が台に載せられ、つぶらな瞳が虚空をにらみます。フックにかけられた巨大な肉の塊から顧客のオーダーに従って切り分けられています。隣では、今到着したのでしょう、豚が皮をむかれておなかを開いた姿で横たわっています。強い臭気に大きな呼吸はできません。それでも、なぜか引きつけられる光景です。人間の食べるという基本的な欲のすごさに改めて驚きます。生きていくということが持つ単純な残酷さを象徴している気もします。その事実をこれほどあからさまに見る光景は日本ではあまりないように思います。
魚屋さんの店先にはかごが並んでいます。中でうごめく黒い塊に目を凝らすと、何と蛙です。一瞬、ぎょっとします。隣の水槽のウナギは見慣れたものですが、得体の知れない魚もいます。処理した魚は半身となって、浮き袋を膨らませた形で並べられています。何でも新鮮であることの証拠を示しているのだとか…。鶏は生きたままでも売買されています。小さなかごに入った生きのいい元気な鶏を出して、両足を縛った形でそのまま持ち帰る人もいます。その場で注文してさばいてもらっている人もいます。「三枚に下ろして」などというのでしょうか。
 さて、マハティールさんが怠け者だと評したのは、こうした元気な中国系の国民のことではありません。マレー人の資質に関してのことです。周囲にこれほど、エネルギーを燃やし働いている人たちがいるのに、マレー人たちはこれまでの生活ぶりを変えようとしないと彼は嘆いているのです。欧米の強い圧力に屈しないアジアの独自性を強烈に主張する彼には、自国民ことに、マレー人のこうした気質は困ったものと受け止められたのだろうと予測できます。
そこで、単純な疑問がわきました。果たして、マレー人はさぼりでだらしない人種と決めつけていいのでしょうか? そして、それはそんなに悪いことなのでしょうか? 資本主義社会における経済競争という舞台では、それは確かに弱点となるでしょう。20世紀はめざましい技術革新により、生産性と効率性が飛躍的に向上しました。コストをかけずにたくさんのものを作り、安く販売することで市場での競争力を確保しようと、各企業が、そして、国家同士がしのぎあっています。製造業では生産過程が見直され「改善」が叫ばれてきました。アジアでは、確かにその分野で取り残されていた国が多いのは確かでしょう。「欧米に追いつき、追い越せ」とキャッチアップの観点での活動が行われてきたのです。その先陣が日本であり、アジアの国にとって、日本は欧米の前に追いつくべき目標となっていました。しかし、アジアにはアジアの良さがあります。ゆっくりと時間の流れる風土・土壌は、効率に追いまくられる現代人にとってオアシスとなるでしょう。
 医療機関に経営の観点がないと批判され、そのために、今でも株式会社の参入が論議されています。一般企業の論理を入れて、生産性や効率を上げることが経営者の資質とも評されています。ほとんどの病院が、個人の開業医から発展したという歴史を持っています。家族経営という色を濃厚に残してきたのも事実です。そうした過程を振り返り、経営トップは意識を変革して、事業を「家業」から「企業」へ脱皮しなければならないといわれました。
私も、医師という基盤からだけではなく、経営者の感覚を持たねばならないと、さまざまな学習会に参加してきました。職員を眺めたとき、マハティールさんと似た感想を抱き、自らの無力さに無念の思いにとらわれることもしばしばです。しかし、一方では、「家業」の良さを失ってはならないとも感じるようになっています。利益を追求することは、経営者の責任ですが、あまりに損得勘定に走ったのでは、利用者のサービスを低下させる危険性もあります。また、ヘルスケア本来の価値を下げてしまう気もします。「家業」として、お客さんに喜んでもらえることが一番と感じる姿勢をなくしては、逆に、競争に勝てないのではないかとも考えるようになってきました。そのバランスをどう取ればよいのか、悩みはつきません。ちょっと、カナダで涼んで、頭を冷やし
てこようと考えています。