いのちは誰のものか

 欧米社会と比較して、日本に寝たきりの方が多い理由は、温泉と安静が好きな国民性とそれを指示する医師たちとの共同作業ではないかと私は考えていました。人間は年を取るにつれて、少しずつ機能が低下してきます。その高齢者の方に、少し体調が悪くなると「無理するな」、「寝ておけ」と動かないことを押しつける風潮が、寝たきりを作るのです。ご家族も、お年寄りを大事にするあまり、そのような対応をされます。ですから、ますます足腰が弱ります。その挙げ句、次第に動けなくなるという「寝かせきり」から「寝たきり」というおきまりのコースを取ることになるのです。
 しかし、他にも理由があるようです。看護学生にターミナルケアの講義をしたときのことです。意識がなくなり、自分で自分の治療の希望を述べることができなくなったとき有効となる「治療の事前指定書−レットミーディサイド−」を紹介しました。終わってから一人の学生が話しかけてきました。「今日は、こういう方法があることが分かって、本当に良かったです。でも、もう少し早く知っておけば、」と、彼女の経験を話してくれました。
 彼女のおじいさんが病院でターミナルを迎えられたときのことです。彼女のお母さん(患者さんからすれば娘さんになります)が、医師から「次第に呼吸の機能が弱ってきているので、今後、人工呼吸器を付けることになるかもしれない」とインフォームドコンセントを受けたそうです。「えーっ! それがインフォームドコンセントかいな?」と思いましたが、遮らずに続きを伺いました。お母さんは、おじいちゃんの苦しむ様子から、これ以上の延命は避けようと、人工呼吸器を付けないように医師にお願いしたというのです。苦しい決断でしょうが、よく理解できる話です。その要請に対して医師は、「そうした機械があるにもかかわらず使用しないことは患者を殺すことと一緒であり、医師としてその願いは叶えられない」と答えたそうです。結局、その治療者からの「宣言」には逆らえず、呼吸器を付けて延命処置を受けたと悲しそうに話してくれました。「ですから、もし、このレットミーディサイドを知っていたら、もう少し、医師に対して強く要望ができたのに」というわけです。
 日本に寝たきりの多いもう一つの理由に、私はここで気付きました。日本では、簡単に死ねないのです! ご本人も、ご家族も望んではおられない姿で、命だけは永らえているという例がおそらく相当数あるのでしょう。日本の病床数が多いとか、急性期病床はどうあるべきかという、医療供給体制に関しての議論が盛んですが、終末期におけるケアのあり方について、もっと問題意識を持つべきだと改めて思いました。
 高齢者一人あたりの医療費は全国で一番安い長野県が、一方では、平均寿命は長いという秘密は、健診を重視した厚生連の活動もさることながら、高い普及率を誇る在宅診療にあると言われています。地域によっては、在宅での死が7割あるといいます。自分の望む「死」を迎えるには、病院には行かないのが原則となります。それで無駄な医療費を使うこともないのですから、一石二鳥です。ピン・ピン・コロリ(PPK)の里、長野県はこれからの医療体制のモデルではないかと思います。
 現状の病院医療では、生まれた限り、いつかは死ぬという至極当たり前のことが、科学の進歩によって避けることが可能であるという幻影を追いかけているような気がしてなりません。目の前で起こる「死」を受け止めかねているのかもしれません。しかし、いくら逃げても、それはどうにもならないことです。寝たきりの多さの背景に、こうした脆弱な精神基盤を見る気がします。
 また、インフォームドコンセントの「誤用」についても、監視するべきだと思います。「ささえあい人権センターCOML」の代表である辻本好子さんは、インフォームドコンセントに対する医師会の日本語訳に、異議を唱えておられます。「説明と同意」が、その訳です。彼女は、その訳は主語が治療者であると言います。主語を患者に換えると別の訳が必要だとして、「理解と選択」という訳を勧めておられます。ケアの送り手と受け手との間に、双方向のコミュニケーションが成立することが、インフォームドコンセントの本質だと思うのですが、医療訴訟を回避するための防御的な説明を、そう呼ぶ傾向は大きな問題と思います。それにしても、先の話で医師が行ったのは、いったい何と呼ぶべきでしょうか? 少なくともインフォームドコンセントではありませんし、昔の「ムンテラ」よりもひどい感じです。あれだけ押しつけが強いと、「脅迫」や「脅し」の類といってもいいでしょう。
 寝たきりを減らすことも大切ですが、ケアの現場で人間の尊厳が損なわれるような事態は、何とか早く解消しなければなりません。そのためには、ケアに当たる人と受ける人の双方にアプローチする必要があります。しかし、ケアの中心的存在である「医師」については、その養成過程が抱える課題を思うと足がすくみます。教育に関心などなく、研究実績によって選考された教授が責任者である大学医学部が相手だからです。それよりも、ケアの受け手である患者さんやご家族、さらにいえば、「国民」を変えていく方が実際的なように思います。「死」を敗北ととらえる医学教育を変えることは大変ですが、自分自身の「死」や身内・家族の「死」をしっかりと受け止める人を増やすことは可能かもしれません。その方々の主張により、現場でのケアは変わっていくと期待しています。私の尊敬する岡山のK理事長は、“それでも救急車を呼びますか?−「逝き方」は「生き方」−(仮題)”という本を今度、出版されます。私も今年は地域の方々に対する講座を開こうと考えています。少しでも多くの人に「死」について考えていただき、ヘルスケア従事者を育てるお手伝いをお願いしたいと考えています。