決断を実行

「異議申請しましょう」と整形外科医長が言います。試合で選手同士がぶつかり、相手の膝で自分の太股を強打した選手に対する治療のレセプトについての話です。選手の大腿前面は強く腫れています。担当医は、患部の血腫(血の固まり)に太めの針を刺して、一部抜き出した上で、弾力包帯で圧迫・固定を施しています。10日後に控える公式戦はどうしても出たいと言います。何とか間に合わないか治療計画を相談します。「保証はでけへんで。しやけど、やるだけやってやな、あかんかったら、しゃーないいう気でいこな」と、お互い腹をくくります。安静をできるだけ短くし、早期から動かすプログラムとします。当日から痛くない範囲で関節を動かすよう指導します。さらに、次のステップとしてのストレッチングを反対の足で教えるよう理学療法士に指示します。また、同時に、練習参加できない間、上肢や体幹の機能が落ちないためのトレーニングのプログラムも追加します。こうしたオーダーは理学療法(簡単)として請求がなされました。それが、返されてきたのです。それで、冒頭の発言となりました。先方は、「固定をするような時期には、リハビリテーションができるわけはない。診療報酬上の『消炎鎮痛処置』となる」という解釈です。この処置は、マッサージや電気・超音波といった受動的な対策や、腰痛に対するベルトによる固定などと同等のものです。理学療法士が専門的知識と技能を用い、早期であるが故のリスクを管理しながら実施するものとは明らかに異なります。
 同じように、手術翌日からというような早期のリハビリテーションも、「複雑」としての請求は認めてもらえません。複雑な理学療法とは、理学療法士が一人の対象者に対し、40分以上かけて行うもので、一日一人の理学療法士が取り扱う対象者の数は12人が限度とされています。患者さんの不安を取りながら、術後早期の出血や痛みといった課題を管理しながら行う理学療法が、複雑ではなく、簡単なものだと主張です。そもそも、固定していたり、術翌日という時期にはリハビリテーションができないという前提に立っているような解釈だと思われます。また、高齢者に多い大腿骨頚部骨折においては、そもそも40分以上の理学療法に耐えるはずはないから、複雑で請求されたもののうち対象者が70歳を越えておれば、削られるという事実もあります。リスクを管理しながら、適切な指導の元、ご本人が自分で早い時期から動く方が、最終的な身体機能においては確実によい成績となっていることは文献上も、経験上も明らかだというのに、その努力には正当な報酬が支払われないのです。自分たちの仕事を正当に評価されてこそ、プロとしての自覚も生まれると思うのですが、その点では、「性悪説」にたっているせいでしょうか、診療報酬上の扱いには不満が募ります。
 9月に社会医療研究所のリハビリテーションを見る海外ツアーに参加しました。その経験が生々しい分、こうした日本の現状に違和感を覚えます。カナダ(トロント)に滞在中に、同時多発テロという大事件が勃発し、残念ながらアメリカのリハの現場は見ることができませんでしたが、カナダだけであっても、大いに収穫のあるツアーでした。ご多分に漏れず、医療経済は潤沢ではありません。費用を節約しながらも、利用者の方へのサービスを低下させないという気概と工夫を至るところで感じました。苦しみながらも解決方法を探る姿勢を肌に感じると、それに引き替え日本は、とぞっとするような不安におそわれます。資源が無尽蔵であるという錯覚から早く脱却しないと、本当にどうにもならない事態となるという危機感が迫ってきます。誰を対象として、どのようなケアを、いくらで提供するべきか、また、医療ケアの対象ではないと規定された人には、どのようなサービスを準備するべきか、そして、それぞれの財源はどこから捻出するのかを討議し、合意できる基本路線を探さないと、行き詰まってからでは遅いのにと焦りが生じます。
 そうはいっても、問題は自分の組織です。使命の実現に向けてあくまでもその本質を守りながら、ケアの質を落とさず、収入あるいは収益を確保する方策を追求しなければなりません。それには「人」の育成です。現場の技術者に対しては、こうした時には相矛盾するテーマに対して、逃げを打たず、知恵を絞って対応策を練り出すねばり強さが求められます。その原動力は、いうまでもありませんが、技術者としての誇りと利用者に対する基本的な責任感ではないでしょうか? それを熟成する責任が管理者にはあります。雰囲気を作り出し、困難に向かって動く仲間を応援し、活動に対しての正当で公正な評価を与え、励まし、育んでいくリーダーシップが必要です。共通の目的に向かって、限られた資源を最大限有効に使って、質を確保し、収入を上げるという命題に対して、どれかの要素に目をつぶり、詰めの甘くなった曖昧な方法を選んでしまうと、そこでのケアにはどこか不純な臭いがつきまといます。岡田所長の言われる「後ろめたさ」です。その結果、サービス自体が元気さを失います。結局は、対象者にとって切れ味の悪いケアしか提供できないことになってしまいます。
 ヘルスケアは相手がしょぼくれている分、技術者が前向きであればあるほど、ポジティブな効果が期待できるものです。そこが、中途半端になると、人に関わる時に重要な内部から放出されるエネルギーが高まりません。そのために、たいした成果につながりません。こうした理屈を理解した上で、厳しい環境にこそファイトを燃やす技術者、管理者を育てるのが最高責任者の勤めとなります。課題ははっきりしています。後は、決断と実行あるのみです。テロの後に見られるアメリカ人たちのまとまりに、一つのヒントがあるような気がしながら、組織運営の方策を練っているところです。