日本における医療・福祉制度の課題−カナダの実態から学ぶもの−

前回は9月のカナダ出張で考えたことなどご報告しました。確かに、医療や福祉の分野では、世界中の国が悩んでいます。医療技術の発達や公衆衛生の概念の普及により、どの国も平均寿命が延びてきました。技術の進歩により新しい検査が開発されると、診断の精度が上がり、医師にとっては助かるのですが、検査の費用は上昇します。また、平均寿命が延び、高齢化が進めば、治療が必要となる人の割合が増えることにもなり、これも費用を増やす要因となります。
つまり、科学技術の進歩は、これまでよりも医療や福祉にかかる費用が増加させるという別の側面を持っているのです。その一方で、20世紀のように、製造業などでの大きな増収が期待できなくなりました。日本においても、同じことです。バブル経済がはじけて、先の見えない不況が続いています。何となく「不安」が漂っていて、それがよけいに個人消費も控えさせる傾向となって、景気にもいい影響を与えないことになっています。国の財政としては税収が低下して、増加する医療福祉といった社会保障費用を賄いにくくなってしまっているのです。
私は政治家ではありませんので、国の制度の複雑なことは分かりませんが、ヘルスケアの現場で働いていて、このままでは、治療を受ける国民にも、また、治療に当たる医療者や経営者にも先行き不安が広がっており、何らかの処置が必要な時期になっているという危機意識を持つようになりました。それを考えるヒントがカナダの医療にあったと思うのです。彼らには強い納税者意識があります。自分たちが納めた税金の使い道について、厳しい監視の体制があり、激しい議論が交わされています。この点は、我が国の状況とずいぶん違うという印象を受けました。
国民皆保険という意味ではカナダも日本も同じです。しかし、カナダでは窓口での一部負担というものはありません。基本的に無料です。カナダ人は、「保険料を支払っているのに3割を自己負担しなければならないやり方は、保険制度としておかしい」と考えているように思いました。しかし、全額を負担するには財源確保も大変ですし、同時に制度維持のためには、無駄な使い方をしないようにしなければ、財政がパンクしてしまいます。そこで、節約のための工夫が随所にありました。

一つは、医療機関や病床数の制限です。病院はすべて国営ですから、統廃合の処置は簡単にできます。地域ごとに、人口や高齢者の割合にしたがって、急性期の病床、リハビリテーションのための病床、高齢者の介護のための病床、精神病床などの数が設定されます。同時に、そこで働く医師、看護婦、検査技師、放射線技師、薬剤師、理学療法士、作業療法士、栄養士、ソーシャルワーカーなど医療従事者の数も定められています。病床数はここ10年程度でかなり減らされましたから、結果的には相当数の医療従事者が職を失った可能性があります。小泉さん流にいえば、これが、改革を進めていくときの「痛み」なのでしょう。カナダの場合、医療費を効率よく使うために病床制限を行うことは、その州での合意に基づいた政策であるため、いったん決まってしまえば、こうした失業の問題も仕方ないものと受け止めているように思われました。現実に、看護婦を始め、多くの医療技術者が隣国のアメリカに移っているという話を聞きました。
治療そのものについても、工夫があります。医療資源の無駄使いを防止するために、代表的な疾患についての治療のガイドラインが定められています。日本のように、担当する医師が自分の考え方で検査をし、入院を指示したりすることはできません。入院については、必要と考えられる基準を満たさなければ、いくら一人の医師が指示しても受け入れてもらえないのです。標準的治療が定められたり、入院基準があったりと、カナダの医師の自由裁量権は厳しく制限されています。入院については、日本の介護保険制度がこれとよく似ていますね。医師の裁量による指示が、結果的には、過剰な対応が増え、医療費の増大につながる無駄を招くという意識は、非常に強いものと感じました。その代わり、急性期治療を行う施設では、日本よりもはるかに多い人間がケアに当たります。短期間に濃厚な治療を集中して、早期の退院をかなえるのです。
こうした実態を経験すると、これからの日本の課題が見えてきます。国民がどれくらいの負担で、どの程度の医療・福祉を求めているのか、国民自身も仲間になっての真剣な議論がいるでしょう。負担はしたくないが、最高のケアを求めるといった無い物ねだりの構造は、許されないことを自覚するべきです。選挙前の国会議員は、こうした甘い要求を聞くかもしれませんが、長い目で見たとき、こうした問題点の先送りは私たちの次の世代にツケをまわし、亡国に導く愚かな行為と弾劾するべきでしょう。
世界を見聞すると、自分の中にある常識が限られたものであることを思い知らされることが多い反面、人種や言葉、風俗・習慣がいくら違っても、やっぱり同じ人間なんだということをしみじみと感じることも少なからずあります。共通の課題に対して、他国の制度や工夫を参考にしながら、大いに知恵を出し合い、最小限の「痛み」でうまく改革が進む方策を選択したいものだと痛感しています。
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