個人的な個人

 毎日のように外来診療をしていると、本当にたくさんの人にお会いします。緊張した様子がありありと窺える方もおられますし、何だか恥ずかしそうに診察室に入ってこられて、なかなか病状をお話しいただけないこともあります。親に連れられてくる幼児は、おびえていますし、一緒に来ているお兄ちゃんは自分のことではないせいか、余裕を見せて「どこが痛いか自分で言うわなアカンでーェ」とえらそうです。やはり親と同行する子供のパターンでも高校生くらいになると、照れもあるのでしょう、たいてい病状は親が説明し始めます。私に促されて自分で話し始めても何だか小声で、親の顔ばかり伺うような仕草の子が多い気がします。中には、注釈を付ける親に「るっせーよ」などとすごんでいる子もいます。年老いた母親と一緒に診察室には行って来られたお二人では、その雰囲気で何となく親子なのか、嫁と姑の関係なのか感じるときもあります。二人の間の距離感が微妙に違うのです。おじさんと若い女性のお二人の時に大失敗したことがあります。ちょうど親子ほどの年の違いがありそうなのですが、お父さんというには細かい気遣いがある気がするのです。「どういうご関係で?」という質問はいかにも身上調査みたいでしづらいですし、困ってしまって「ご主人ですか?」と尋ねたのです。瞬間、おじさんの表情が中途半端なものになったのを感じて、「しまった」と思いましたが、時すでに遅し。「まぁ、そんなもんです」という返事はほとんど私の耳に届きません。しかし、目の端ではちっとも困っていない女の子の表情が映って、慣れているはずの診療の手順がどこか狂ってしまいました。

 ともかく、診療の中で多くの種類の人間と出会い、盛りだくさんな人間模様に触れることになります。私は「診療」という仕事には二つの側面があると思っています。一つは純粋に「科学的」「医学的」な作業である「診断」で、もう一つは「社会的」そして「個人的」な判断に基づく「治療」です。

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 「診断」は病気が何であるかを見つける過程であり手順です。一つしかない「病名」という答えを論理的に探していく道筋です。いつからどんな風に何がどうおかしいと感じておられるのか、これまでの大きな病気やケガ、そして手術の経験はどうか、ご家族で同じ症状の方はおられないか、お仕事は何か、重労働か軽作業か、有機溶剤を使った職場ではないかなど、お聞きすることはたくさんあります。慣れた医師はこの作業で約7割の疾患を確定できると言います。したがって、医学教育に熱心に取り組んでいる機関では、検査や画像といった情報を重要視する最近の風潮に批判的な意見を出し、検査をする方が儲かるような仕組みとなっている現在の制度の変革を訴えています。いずれにしても、こうした「問診」に引き続き、必要で、かつ十分な検査の計画が考えられ、オーダーされます。そして、その結果から正しい「診断」にたどり着くということになります。

 そして診療の次の段階が「治療」です。一つの診断に対して治療方法は決して一つではありません。医師の側からすれば、病状や病気の進行度に応じて、いくつかの選択肢が考えられることになります。一方、患者さんの側に最終的な治療法の選択を行う条件があります。「今は仕事が忙しくてとても入院できない」だとか、「手術は絶対にイヤだ」とか、「子供がまだ小さいので世話をする人がいないと困るから何度も通院が必要な治療はできない」というのもあります。「この病院は遠いので、近くに代わりたい」という希望もあるでしょう。スポーツ選手の治療では「次の試合は高校生として最後の試合だから、ギプスや手術なんかせずに、無理してでも出場したい」ということもあります。ガンの治療でも「入院しての抗ガン剤の治療では今抱えている仕事を仕上げることができない。多少、延命効果があるといっても根本的に治るものではないのなら、このまま仕事を続けながら経過をみたい」という大変重い決断をなさることもあります。
ともかく、「治療」は医師が考えた医学的な結論だけで決まるものではなのです。一つの「診断名」に対してそれこそ、人数分の治療方法があるといってもよいと思います。そして、そもそも、診療では同じ診断名の疾患に対して、まったく同一の治療を行っても、結果がすべて一緒とは限りません。うまくいくこともあれば、予想もしない反応に驚くこともあるのです。まさに「治療」は個人的であるということです。

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 個人的な個人であるほど、ある意味で決断は早くなります。専門家である医師と、疾患の持ち主であり治療の主役である患者さんが、それぞれの情報をうまく出し合い、状況をお互いが理解した上で最終的な選択や決断に至ることが、よく言われる「インフォームドコンセント」でしょう。患者さんが自分の個人的な考えを表明されないと、医師は一般的な方法をお勧めしたり、医師個人の価値観にしたがった治療方法を選択します。スポーツ選手に生じたケガに対して、「スポーツをするからこんなことになるのだ。スポーツを止めれば解決する」という考えから、簡単にスポーツ禁止を指示する医師が多いのは、自分の価値観からの判断ということになります。

 日本人は個人的であることを教育されてこなかったという歴史があります。周囲と同じで無ければ叱られるという時代がありました。また、「みんなで渡れば怖くない」式の処世術の一つとして、自分の意見があっても表明しないようにしてきた社会環境があったとも言えます。しかし、少なくとも診療においては「個人的であること」はとても大事な要素だと思います。自分が何を大事に生きているのか、また、何が無くなれば自分らしくないのか、それが治療方法選択の重要な鍵となるということです。

 日本では、ガンになった場合に、最初に本人に告げられるよりも家族に告げられる例が今でも多いと聞きます。欧米では考えられないことです。ある意味ではもっとも基本的で、最も重要な「診断名」という個人情報を、家族とはいえ、本人以外の人に告げるというのは「個人」がないがしろにされている事態でもあるからです。主体である個人は、例外なく家族よりも優先されるのが当然ではないでしょうか。

 「個人が個人的であること、個人的になること」は、自分自身が納得いく人生を主体的、能動的に歩んでいく基盤です。そして、それが未成熟であると揶揄される日本のヘルスケアの現場を変革していく大きな力となる気がしています。