リハビリテーションの意義 −スポーツ医学から見たとらえ方−

【ご挨拶】

 この度は第25回の記念総会の開催、誠におめでとうございます。これだけの年数継続するだけでも大変であるにもかかわらず、年々、参加者が増え、内容も充実しているのですから、本当に素晴らしいことだと思います。会の運営や開催の準備に当たる役員の皆さまのご努力に心から敬服いたします。

 また、今年が25年という節目の年であるということから「近畿SCD友の会 25周年記念誌」が企画され、最終的には見事に発行されました。会のこれまでの経緯が余すところなく記載されている歴史的な一面と、この会を支える方々の熱意やご苦労が行間からしみ出てくるような熱い内容の充実した記念誌となっています。疾患に罹患され、辛い体験をともに共有し、励まし合いながら、明るく積極的な日々を過ごされる会員の方々のご投稿には、心からの感動があります。

 父の後、若輩にもかかわらず顧問として参加させていただいておりますが、これからも内容と行動力を兼ね備えたこの類い希な会に参加させていただき、その発展を間近に見る立場に身を置かせていただければと願っております。今後とも、よろしくお願い申し上げます。

 

 以下に当日、機会をいただき、お話しさせていただいた講演の内容を書かせていただきます。

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【はじめに】

 私はリハビリテーション(これから「リハ」と略して表記します)の専門家ではありません。整形外科、ことに、スポーツ選手に起こるケガや障害に対する対策を主に勉強し、医師、看護師や理学療法士や作業療法士などのリハの技術者、選手や指導者に近い存在であるトレーナーなどの方々と一緒に選手の治療や予防など実践してきました。そして、いくつかの大切なことに気がつきました。当初はそれがスポーツ医学における「特殊性」であるように感じていましたが、次第にそれはスポーツ選手だけに適用される特別なものではなく、一般の方にも、高齢者にも、障害者にも、すべての方に当てはまる「普遍性」を持った事柄であることが分かってきました。

 中でも、身体的、または精神的な課題を抱えた方が、ご本人らしい生活に戻られるためには、リハの考え方がどうしても必要となります。医療関係者としてリハの重要性をいくら強調してもしすぎるということはないと思うに至りました。

本日は私のそうした経験から、リハの考え方や意義をお話ししたいと思います。

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【失うものと得るもの】

 人生を過ごしていくうちに、人は何かを獲得します。学校では学問を学び、頭に入れます。その後、仕事や技術を身につけますし、伴侶や友人も得ますし、趣味とも出会います。一方で、何かを失っていきます。年齢とともに老化による影響で視力が落ちてきます。歯も抜けます。走ることもできなくなってきてこんなにも身体能力が落ちてきたかとため息の出ることもあります。

 病気やケガでは、もっとはっきりした変化があります。ケガによって身体の一部を失うこともありますし、骨折の後、関節の動きが悪くなったり筋力がなくなったりすることや、傷んだ臓器を手術で取り出されることもあります。
こうして何かを得たり、逆に何かを失ったりしながら人は生きていくのです。最後に『生命』を失って一生の幕が閉じます。

 そして、リハでは、人生の中でこうして得たものや、特に、失ったものによって受けた影響を問題にし、これの回復に力を注ぎます。

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【スポーツ医学で知ったこと】

 スポーツ選手のケガや障害を専門にするようになって、競技人口の多い野球による肘や肩の症状を診る機会がぐっと増えました。中には、なかなか診断や治療に困るケースもありました。職業として野球を行っているプロ選手がどんな症状を持ち、どのような管理や治療を受けているのか、知って、日常診療に役立てようと思いました。幸い、ある球団のトレーナーと親しくなり、毎年春期キャンプにも参加し、つき合いが深くなりました。その流れで、本場のメジャーリーグではどのような管理体制かを知る機会がありました。本場の球場にも足を向け、現地で何人かのトレーナーとも知り合うことができました。

 ある時、シカゴカブスのチーフトレーナーをしていたデイヴィッド・タンバスに「チームのトレーナーとして、一番守らないといけないことは何か?」と質問したことがあります。彼は即座に「一番大事なのは当然のことだが、選手の命だ」さらに続けて「二番目は選手の尊厳、価値観だろうね」と答えてくれました。

 トレーナーは選手が野球できるように、身体の手入れを主な業務としていると思い込んでいた私にとってこの返答は驚きでした。そして、尊厳や価値観とは一体何かを考えるようになりました。今ではそれは、「その人がその人らしく生きること」ではないかと思うようになっています。野球選手にとって野球が思うようにできることが尊厳を守ることにつながります。だから、身体のコンディショニングも重要な業務となります。しかし、それは、あくまで選手の価値観を基本としたものであるということでした。

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【日本の整形外科診療で感じた問題点】

 しかしながら、スポーツ選手の診療をしている中で、彼らが受けてきた過去の治療歴を聞くと、残念ながら、彼らの尊厳は守られていないことが多いことに気付きました。それ以外にもいくつかの問題点がありました。

 一つ目は、レントゲンやMRIといった画像診断の結果を重視しすぎるということです。担当する医師は、形の上で少しの変化があると、すべてをそのためだと考える傾向があります。その結果、形を整えることに関心が集中するあまり、機能に対しての配慮が不十分となる場合があるのです。レントゲンに骨折の線が消えるまでギプス固定を続けたり体重を載せることを禁止してしまうような対処です。そのために、関節が固まって動きにくくなったり筋肉が落ちてしまって歩けなくなることもあるのです。

 二つ目は、一つ目とも関連しますが、過度の安静や固定です。腰でも膝でも痛みがあると訴えた患者さんは、ほとんどの場合、安静や固定を指示されます。無理をしないようにと注意を受け、できるだけ使わないようにして日常生活を送ることになります。スポーツ選手の場合ですら、そういったアドバイスがなされます。野球の投手が、肩が痛いと訴えます。投球は禁止されます。それにより、確かに、当初の痛みは改善するでしょうが、次に投げればどうなるでしょうか?再発することは間違いありません。同じ部位を傷んだときと同じ使い方をするのですから、同じ症状が出るのは当然のことです。もういいかなと思って再開すると、再び同じ痛みに悩まされます。また、休みます。こうして次第に競技から離れてしまうことになるのです。

 安静による弊害は、一般には「廃用症候群」として知られています。動かないでいると徐々に機能は低下し、寝たきりに近づいてしまうのです。場合によっては、それが治療の経過で起こることを忘れてはなりません。治療の副作用として「廃用症候群」を招くのはもっとも避けなければならないことだと思っています。

 使うことによって起こった症状は使わないことで治まりますが、それからが大切だということで、三つ目はそういった機能回復への方策です。筋力を強くし、再発を防止するという観点での対応が求められていると思います。

 そして最後が、医師の価値観の押しつけです。肩が炎症を起こしているから、炎症を抑えるためには休まねばならないという医師の考え方を、どのような状況の患者さんにも守るように要求するのです。例えば、高校3年生で、甲子園出場はできないけれども、おそらくはそれが高校生活最後の試合の前、という状況ならどうでしょう? 炎症を起こしている場所に対して医学的には安静がベストの処置だとしても、彼自身の価値観からすれば、受け入れられる対策ではないに違いありません。むしろ、痛くても出場することが彼らしい生き方になるのではないでしょうか?もちろん、何が何でも出ればいいと突き放すのではありません。起こりうる余分な出来事を医学的に予測し、それを理解できるように医師が説明し、リスクをお互いが共有した上で最終的な決断をすることになります。さらに、医師は実行に際して、なるべく余分なことが起こらないような対処の方法を指導することも必要になるでしょう。

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【現代の医療倫理】

 医学の父といえばヒポクラテスが有名です。彼の残した言葉は時に医学部の卒業式にて「ヒポクラテスの誓い」として読み上げられることもあるほどです。その中に、「私は能力と判断の限り患者に利益すると思う養生法をとり、悪くて有害と知る方法を決してとらない」というくだりがあります。つまり、今のように患者さんに病気の内容や治療法とその特性などを説明し、最終的には患者さん自身が決定するという方式はあり得なかったのです。医師自身が一番いいと思う方針で治療に当たるということです。

 しかし、現代の価値観は多様化しました。その方の尊厳や価値観がどんなものであり、どうすれば傷つき、どうすれば守ることができるのか、他者である医療者には予想もできないのです。だから、医療者の十分な状況説明を理解したご本人が、自分自身で決めていただくしかありません。

 尊厳を守るということはご本人のQOLを守ることでもあります。QOLという言葉はQuality of Lifeの頭文字を取ったものです。Qualityは「質」と訳して大差はないのでしょうが、lifeは難しい単語です。意味がたくさんあるのです。「生命」も「生活」も「人生」もlifeです。狭義の「医学」は「生命」を相手にします。「診療」は「生活」を含めたものでしょう。そして「リハビリテーション」は「人生」までも包括して考える学問だと思います。

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【北米でのリハビリテーション】

 アメリカに高校生で留学している時に交通事故で脊髄損傷という大けがにあい、下半身が麻痺してしまうという経験をした山崎泰広氏の著書に「愛と友情のボストン」という本があります。その中で彼はアメリカで初めてリハビリテーションを受けるときのオリエンテーションについてこう書いています。

 「あなたは何も変わっていません。だから今まで持っていた目的や夢を変える必要はありません。しかし障害によって、今までと同じ方法では叶えられなくなりました。どういう方法や道具を使えばできるか考えて、あなたの目的や夢の達成のお手伝いをするのがリハビリの役目です」

 そして、日本にお尻にできてしまった床ずれの治療で帰国しているとき、彼は隣のベッドでこれからリハを受ける同室の患者さんがこう言われているのを聞きます。
「残念ながら、今までできていたことが、これからはできなくなります。したがって『障害者』として生きていく方法を考えなければなりません。」

 大きな違いがあります。またさらに、彼はアメリカでリハを始めるに当たって「あなたは何をしたいのですか?」と聞かれたと書いています。そして、彼はこう続けています。

 私は「大学に行って勉強をする」、「水泳とスキーとテニスをする」という目標を立てました。そうすると、リハ病院のある人は私が勉強できる学校を探してくれ、またある人は学校に通うために私が運転できるように車を改造してくれます。トレーニングに関しても、すべて目的に向かって行います。水泳をしたいならこういう筋肉が必要、テニスならこういう車椅子の扱い方が必要という風にトレーニングを行います。だから全然嫌ではありません。目的に向かってやっていることですから。

 アメリカのリハ専門病院では、このように目的を聞きます。逆に目的のない人はその施設に入院することもできないのです。リハの目的は、足とか手を動かし、機能を回復させることではありません。それは手段なのです。自分でできないことを減らし、できることを増やすのは、その人をできる限り元の生活に戻し、その人がその人らしくやりたいことをできるようにさせるためなのです。その目標を達成するためにどうすればいいかを考え、一緒に実行していくのがリハです。したがって、その人に目標がなかったら、リハはできないと言われることになります。

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【目的意識を持った人生】

 健康について、関心が高まっています。中には「健康のためなら死んでもいい」という人がいたとか。しかし、健康が目的になるのはおかしいと私は感じています。健康になることは自分がやりたいことができる状況を作り、自分らしく生き、尊厳を守り、QOLを保つ手段であって、決して目的ではないのです。

 リハも同じです。リハを行うことは自分らしく生きるための手段であることを忘れてはならないと思います。それには、自分は何を大切にし、何を目的として生きているのか、絶えず確認する必要があります。欧米人に比較して日本人はこうした目的意識を持つことが少し苦手な民族ではないかと思うことがあるのですが、ここでは幾人かの例をご紹介しましょう。

1. Terry Foxのマラソン基金

 彼は、右足に骨肉腫を発症して、大腿切断という大きな手術を受けます。それまで元気で何一つ問題のなかった彼の人生は大きく変わります。彼は、こんな病気があることも知りませんでした。まして、自分がその病気にかかり、脚を失うことになるとは予想もしなかったはずです。彼は、憤ります。こうした病気が世の中にあること、その対処方法がまだ十分に見つけられていないこと、それを研究して欲しいと願います。そのために基金を募るため、彼は義足を付けてのカナダ横断マラソンを企画します。彼は国民一人1ドルずつの寄付を募ろうと考えます。当時カナダの人口は二千四百万人でした。目標額は2,400万ドルです。五大湖を越してカナダ中部に差しかかった時、肺に肉腫が転移していることが分かります。すでに手遅れの状態でした。彼は短い人生を終えます。しかし、その報を聞いた多くの人々は、彼の意思に報いるために寄付をします。結果的には4,000万ドル足らずの寄付が国立癌センターの研究資金となったそうです。

2. クリストファー・リーブの一生

 スーパーマン役の彼の人生については、ニュースに書かせていただきました。

3. ヘンリ−・ビスカルディー アビリティー運動の創始者

彼は生まれつき、両下肢が欠損していました。8歳まで複数回の手術で長期入院を経験しています。1940年に赤十字社に入社し、ワシントン病院に勤務します。戦傷者に歩行訓練を指導し、障害者に希望と勇気、自信を与えました。1945年にはスポーツ記者さらには製鉄所人事部長となります。1949年にニューヨーク大学のリハビリテーションの教授であるラスク博士に指導と援助を受け「ジャスト・ワン・ブレイク」(小さな突破口)という傷痍軍人の就職斡旋会社を立ち上げます。1952年には「アメリカ・アビリティーズ社」を設立し、「保障よりも働く機会を」、「寄付よりも投資を」と主張するのです。
 アビリティーズ社の綱領にはこう書かれています。
「わたしは平凡な人間でありたくない。
非凡な人間としてできれば「保障」よりも「チャンス」を選ぶこと・・・
これこそわたしの願いである。
わたしは、国家に養われ、卑屈で怠惰な人生を送ることに満足できない。
わたしは夢をえがき、計算された冒険の道を求め、建設しつづける。
たとえ、それが成功しようとも、失敗しようとも。
わたしは、すばらしい人生の刺激を、いくばくかの施し物のために放棄することなどしない。

 わたしは保障された生き方よりも、つねに挑戦する人生を選ぶ。
それはユートピアのような日々ではなく、スリルに満ちた世界である。
わたしは決して恩恵のために自由を、慈善のために尊厳を捨てることはしない。いかなる権力者の前でも畏怖しないし、また、いかなる恐怖にたいしても、恐れることはない。姿勢を正し、誇らかに、なにごとも恐れず、自らの意志で決断し、行動する。自分で創造していくことを大切に考え、世間に向かってこう宣言したい。
“これがわたしの成し遂げたことだ”と。」

4.ランス・アームストロング ツールドフランス6連覇

 ピレネーとアルプスという二つの山脈を含んで約3週間でフランス一周し、タイムを競う自転車のロードレースで「ツールドフランス」という有名なレースがあります。彼は、この過酷なレースで1999年から2004年まで前人未踏の6連覇を達成しています。この記録が並はずれているのは、誰もなしえなかった6回の連続優勝をしたことだけではありません。彼が助かる確率は半分以下だといわれていたガンの治療から復活したことです。1996年、彼は睾丸にガンが見つかります。その上、肺と脳にも転移していました。自転車競技を辞める気のない彼は、脳の転移した病巣を取り除く手術を受け、さらに、心肺機能が落ちる化学療法を避け、いくら副作用が強くても身体を弱らさない治療を選びます。その時、彼のスポンサーはからから離れていったと言います。その逆境の中から、見事1999年、このレースで初優勝するのです。治療の前に取り出していた凍結された精子により、3人のこども達にも恵まれます。今年、5月、7月のレース本番を前に彼はレース後の引退を表明しています。

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【自立した魂と目的意識】

 こうしてご紹介した人たちの人生はいかがですか? それぞれ、すごい人生ですね。でも、何が、すごいのでしょうか?彼らを突き動かしている原動力とは、一体何でしょうか? 私は、これが尊厳ではないかと思います。自分が自分らしく生きたいと願う気持ちの強さが、恐ろしいほどの集中力とパワーを生み出すのではないでしょうか?

 また、彼らの素晴らしい業績の周囲に多くの理解者がいたことを忘れてはなりません。ヘンリービスカルディーを励まし、応援したのは、ルーズベルト大統領であり、リハビリテーション医学の創始者の一人ラスク教授でした。ご家族や友人達もサポートを惜しんでいません。

 7連覇を目指すランス・アームストロングはこう語っています。「ツールに勝った人間と呼ばれるよりも、ガンに勝った人間と呼ばれたい」

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【リハビリテーションの意義】

 リハビリテーションは治療医学、予防医学についでの第三の医学と呼ばれることがあります。しかし、第3番目といっても、予防があって、治療があって、その次にリハビリテーションという意味でのものではありません。傷んだ臓器の修理だけを考える治療ではなく、あくまでそれは手段であって、診療(ヘルスケア)の目的はその方が尊厳を守り、QOLを保持して自分らしい人生を送ることを支援することであることをリハの考え方は教えているのです。

 私たち医療者は、リハビリテーションという考え方を通して、その方らしい人生をサポートすることが大事な使命であることになります。患者さんご自身が明確な目的を持たれること、そして、医療者がその意義を十分に理解し、その目的を叶えるための方法を一緒に考えともに実践していくことそれが、リハビリテーションの本来の姿であり、あるべき姿なのだろうと思います。

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【最後に】

 北米のリハビリテーションの現場で、失ったものを並べて振り返る人生よりも、得るものを求めて活動する人生が大事だと説かれても、そのあまりの楽観主義が鼻につくことがありました。障害を持った方が見せる強い自我にたじろぐ経験もしました。しかし、一方日本では、誰も何もしてくれないからと不服ばかりで動こうとしない患者さんに、診療中でなければ抑えることが難しいくらいの憤りを覚えたこともあります。

 自分が自分であることを主張することがあまり上手でない日本人にとって、例に上げた人たちの強い意思に基づく活動は眩しすぎる面もあります。しかし、無理にでも彼らを見習って、楽観的な積極主義を持つことで、新しい局面が開ける可能性も感じています。

 皆さまの明日からの生活や人生に、少しでも参考となることがあれば、何よりの幸いです。有り難うございました。