生き方と人間観

 人は生きていく上で、節目節目に自分の人生の方向性を選び、決めることが求められます。考えに考え抜いて達した結論が、思いつきのように選んだ道とそう違わないことだってよくあります。決断がどんな根拠でなされるのか、最近、私は強い関心を抱くようになりました。その背景として、一つには、子供たちが自分の道を見っけようと模索する過程を目の当たりにしているせいではないかと思います。

 二つ目は、仕事の上で、職員の方々から悩みを聞いたり、それに対して自分なりのアドバイスをしたりする機会が増えてきたからでもあるでしょう。私は比較的若い30代後半に組織の責任者になりました。当然ながら、当初は自分よりも人生経験豊富な職員の方々に囲まれての仕事となりました。その頃は相談を受けることはほとんどなかったと記憶します。それが年を取ってきたせいか、そんな話しが増えてきたということです。

 三つ目の背景、これが一番大きな要因だと思うのですが、日常診療において多くの患者さんと接してきた積み重ねによる影響が大きいと思います。人は実にさまざまな考え方があり、多彩な人生があることに驚きます。それぞれの人生が営まれた背景には、時代や環境といった個人がどうしようもない部分と、考え方にそってその方自身が選択や決断できる要素があると思います。後者が私たちヘルスケアの現場で経験することです。私たちはヘルスケアに関する情報を提供しアドバイスを送ることで、その重要な決断に立ち会うことになります。彼らの価値判断は実に多彩です。自分の想像する以上のバラエティーに富んでいます。それが私の人間に関する関心をますます高める結果となりました。

 ただし、一方では、まったく違う年代、異なる環境でも、状況が似てくるとほとんど変わらぬ結論を出されることも経験します。これはまた別の意味で、人間という存在を考える貴重な体験と思っています。このことについては、別の機会に書いてみたいと思っています。さて、個人が自分の価値観に沿って生きていき、選択や決断をしていく基盤となるものというのは一体どのような価値基準があるのでしょう?

 看護師の管理者の養成過程では、その人がどのような「看護観」を持っているかを明らかとすることが組み入れられています。自分が看護師として、どのような看護を理想の看護としてイメージしているか、文章化することが求められています。それは、人間というものをどのような存在と考えているかという基本を問う質問でもあるのです。その「看護観」にしたがって、看護の理論である「看護論」が展開され、技術的な保障の元に実際の看護を行う「看護実践」につながります。したがって、その方の「看護観は結局のところその方自身の看護の質を問うものでもあり、指導者として後進の看護師養成における「魂」の部分を確認する過程でもあります。

 看護管理者はひとり一人、他者に説明できる自分の「看護観」を持っていることになります。それは、業務における管理上の問題や若い看護士育成の過程における悩みの解決を考える時、いつも帰ることのできる原点となります。この原点に沿ってあるべき姿を自分自身に問いかけることで、多くの課題は解決への道を見出すことができるのではないかと、私は想像しています。

 私が接する友人たちや仕事上での接点を持つ方々の生き方や人生の選択を見ていると、なるほどと思わせる生き方の背後に、このような裏付けがどっしりと存在していることに気付きました。ある職業で素晴らしい業績を上げられた方は、ただその技能が人並みはずれているというだけではなく、その仕事に対する基本的な考え方が人とは違うということです。何も特別なことをおっしゃる訳ではない場合もあります。しかし、その思いの深さや実践することへの厳しさが普通以上のものがあるということです。その方が持っている情熱と確固とした信念がかみ合っているという印象です。すぐに思いつくのは、スポーツ界のイチロー選手や柔道の山下選手、シンクロの井村コーチです。彼らは並はずれた技能だけではなく、「プロとは何か」とか、「スポーツ選手に求められているものは」という問いを何度も繰り返し、自分の中に着実に築き上げていく過程で、さらに高みに登っていったと推測します。

 しかし、これは何も特別な立場の人だけに適用されることではないと思います。自分なりに自分の生き方の基盤を確認するには、この看護管理者養成過程で問われる「あなたの看護観を教えて下さい」という設問は良いきっかけを与えてくれると私は思います。自分の置かれた立場での設問を作り、自問自答してみるのです。管理者は自分の管理観を考え、母親は自分の母親観を作り出します。つまり、人間というのが、本来どのような存在なのかを考え、自分なりの結論を導き出そうとすること、そして、その考えに沿って、自分の置かれた立場が、本来どうあるべきかを規定していくこと、そして、そこから具体的に実行する上での知識や技術が確立されること、そうして初めて自分の考える通りの実践が可能となるのでしょう。人間が関わる場面に参加する時に、自分はその場に何を求めているのか、基本となる事項を確認する必要があるということです。その一番先にあるものは「人間観」です。その元にあるのは「世界観1や「自然観」といったものかもしれません。

 人間はもともとどうしようもない存在だと総括する人もいるでしょう。人間はなかなか捨てたものではないが、どこかに救いが必要だと、周囲との関わりやサポートの重要性をイメージする人もおられるでしょう。自分の頭に浮かぶさまざまな人間像が、自分が生きていく上での方針決定の基盤となるということを、強く感じています。

 私たちは日常生活の会話の中でよく、「あぁ、あの方らしい生き方だ」とか「その行動は彼らしいね」などと論評します。変えることができない状況においてすら、自分自身らしく生きることが可能であることは、人類の歴史の中で幾多の実例があります。自分自身が納得する自分なりの生き方を選ぶのは、まさに自分自身の責任です。そのためにこうした基本的なことを考えてみるのも一つの方策だと思います。