プロであること−総合依存の人間関係を考える−

 今年のプロ野球も現時点(10月中旬)で、日本シリーズを残すばかりとなりました。前評判の高かった巨人と西武の勝負です。チームとしての日本一をかけるこの勝負も興味は尽きませんが、今年は個人タイトル争いが面白くて、優勝が決まってからのいわゆる「消化試合」にも多くのファンが駆けつけました。阪神の試合もたくさんの観客で埋まっていました。このチームの場合は、個人タイトルではなく、昨年よりも上の成績を上げること、つまりビリからの脱出です。最終的には4位が確定しました。きっと、星野監督はホッとしたでしょうし、前の監督は無念の気持ちになったかもしれません。

 さて、このタイトル争いのさなかに、私としては気になる発言がありました。三冠王に挑戦する巨人の松井選手の首位打者を奪おうとする中日の福留選手に関する上司である山田監督のことです。福留選手は残り僅かの試合で固め打ちをして、松井選手との打率の差を拡げました。打点やホームラン数は積み上げていく数字ですから、打数を重ねて増えることはあっても減ることはありません。しかし、打率は違います。ヒットを打てば上がりますが、逆に凡打をすれば下がります。投手でいえば、防御率です。三振奪取数は減らないけれども、打たれれば、防御率は下がるのです。出場させると、成績が下がる可能性があるということで、山田監督は次の試合に福留選手を使わないと明言しました。「初めてタイトルを取れるところまで来たんだよ。出す方がおかしいでしょ。チームとして使わないのが当たり前で、使うと笑われちゃうよ」というのが彼のコメントです。結局、福留選手には、連続試合出場がかかっているとかで、打席に立つことはなく、一回だけ守備について退きました。

 私は、憤慨です。これがプロ野球だと、どうして胸を張ることができるでしょうか?

 今年の7月5日に亡くなったプロ野球選手「テッド・ウィリアムス氏」のことを思い出します。彼は「最後の4割打者」と言われた強打者です。23歳だった1941年、公式戦最終日のダブルヘッダーを前にして彼の打率は3割9分9厘5毛でした。繰り上げで4割に達していたのです。チームメイトたちは、記録維持のために、出場を控えるように忠告しました。しかし、彼は自ら志願して出場します。結果は、2試合で8打数6安打、結局、打率は4割6厘に達しました。それ以後、大リーグに4割打者は誕生していません。

 それにひきかえ日本のプロ野球はどうでしょう? 昨年は、ホームランの記録をねらう近鉄のローズ選手で同じような出来事がありました。これまでの記録を持つ王監督が率いるチームが近鉄と対戦することになりました。このチームのピッチングコーチは、自軍の投手に対して、打てそうにないボール球ばかり投げるよう指示をしました。監督はそのピッチングコーチの方針に異議を唱えませんでした。この点に関するマスコミの質問には、「それは、現場の判断だから」とコメントしています。

 この出来事で、監督の管理者としての立場を疑いました。現場に任せているからといって、自分の判断を言わないでその職が務まるとは思えません。現場の判断が自分の方針と合致しているかどうかを確認しながら、全体としての方向性のゆがみを無くすのが、上級管理者の責任のはずです。これを放棄しては、全体の管理などできるわけもありません。

 それで、大変腹が立っていたのですが、また、今回の山田監督の発言です。今年も同じようなことを繰り返していることを知り、プロ野球の将来は暗いと確信しています。おそらく今のままでは、サッカー人気に蹴散らされてしまうに違いありません。プロ野球というのは、球場に足を運んだり、テレビで応援したりするファンの方々によって成り立っています。画家は絵を鑑賞し、時には、購入してくれる人たちによって、その仕事ができるわけです。多少、自分の本意が通じない相手であっても、それは自分が生活できる基盤としてパトロンだと考えるべきです。つまり、観客やファンはそれによって、楽しみや安らぎを得ることができます。そして、そのことに対価を支払うのです。一方、プロ選手や画家は自分を高め、より一層のパフォーマンスを発揮する努力をします。そこには、ある決まった一方が他方をいつも支えるといった一方通行の関係ではなく、相互に支え合い、助け合いながら利用する「相互依存」の関係が見えます。

 ところが、プロ野球界は完全にその依存関係を忘れてしまっています。自分たちのチーム、そして個々の選手のことしか目に入っていません。チームを懸命に応援したり、選手の活躍に心躍らせるファンのことに気づいていません。気づいていて無視しているという最悪の可能性もあります。思い上がりも甚だしいと思います。口では、ファンあってのプロ野球といっても、自分たちがすべてを支配していると勘違いしているのでしょう。

 このような思い違いは、生活のさまざまな場面で見ることがあります。公的な仕事はその最たるものでしょう。国家公務員が、公僕として働くという図式はいつしか古くさい論理として葬られているような気がします。国民の税金をもらっているのだからというきわめて即物的な論拠で、職務を指摘されることはあっても本来的な意味で、国民と相互依存の関係であるという話にはつながりません。一方だけが他方を支配したり、管理するのではなく、お互いがお互いの存在によって助けられ、働く意味が出てくるという考え方をもっと知って欲しいと思うのです。

 家庭や職場における人間関係はまさしくそうです。また、商取引での売り手と買い手もそうでしょう。医療における患者と医療者も同じことです。お互いがお互いによって助けられる関係を認識すれば、もっとよい協調関係が生まれるような気がしています。それには、相手のことをもっと知らねばなりません。そして、相手の立場を理解しようとすることも必要でしょう。さらには、そこで生まれる信頼感というものが基盤となると考えています。日本がさまざまな場面で曲がり角に来ていることは多くの方が指摘している通りです。その変革の時期に、中心になって動くのは、主体である国民であるはずです。公務員や国会議員が決めるのではないのです。その動きの基本的考え方を熟成していくためにも人にすべてを委ねるのでもなく、自分ですべてを負うのでもない、人と人が結びつく社会を私はイメージしています。自立と依存のバランスを取りたいものですね。