ヘルスケアにおける尊厳を考える

 この9月に、リハビリテーションの施設を見学するツアーに参加して、カナダに行って来ました。カナダと日本の医療の制度が違うために、どちらが優れているかというような単純な比較はできませんが、リハビリの現場で強く感じた相違があります。それは、ヘルスケアの担当者たちの基本姿勢に関するものです。それは、専門職種としての「哲学」でもあり、人として生きていく上での「基本思想」とも思えるものでした。そのキーワードは「尊厳」ということです。

 広辞苑では「尊厳」は「とうとくおごそかで、おかしがたいこと」となっています。さらに「尊厳死」が例としてあげられ「一個の人格としての尊厳を保って死を迎える、あるいは迎えさせること。近代医学の延命技術などが、死に臨む人の人間性を無視しがちであることへの反省として、認識されるようになった」とあります。私なりに、この言葉を定義すると、「一人の人間として正しく受け止められ、相応の対応を受けること」ではないかと思っています。この「尊厳」を守ろうとする意識の強さにおいて、私はカナダと日本の間に相当の開きがあると感じて帰国しました。自分自身の仕事を振り返り、反省を含めて、この「尊厳」ということについて、考えてみたいと思います。

 ヘルスケアは人間を扱う仕事です。しかも、仕事の性質上、「痛んでいる人」、「苦しんでいる人」、「悩んでいる人」、「困っている人」、「死にそうな人」、「悲しんでいる人」など、人生におけるマイナスの体験をきっかけとして接点持つことが多くなります。担当者はそのマイナス面を何とか元に戻そうと、自分たちの技能を発揮します。西洋医学のアプローチとしては、その原因を探り、対策を考え、実行するというものです。しかし、診断に至る検査とか、また治すための薬や手術といった治療行為というものは、それ自体が人を痛めつけてしまいます。つまり、ヘルスケアという業種は、人の苦しみや悩みを解決するために仕事をしているのですが、その経過の中で、さらに、人を傷つけてしまうという矛盾を原則的に抱えているものなのです。そこでは「尊厳」がそもそも守られにくい環境にあるのです。担当者はこのことを自覚して、仕事しなければならないと思うのです。

 しかし、このことに気付いている担当者は、日本では、非常に少ない気がします。治療のため、治すためなのだからと、辛い検査や治療を受けることを強いますし、本人の我慢を強制します。極端な場合、治してやるといわんばかりの態度で患者さんの前に立ちはだかる医師も珍しくはありません。他人に見せたり、触れられたりすることが耐え難い恥ずかしさを伴う場所であっても、症状があって気になり、不安が取れないとなれば、医師のもとを訪れます。ためらいを振り捨て、勇気を持って受診されたことを理解して、対応するべきなのですが、そうした配慮が欠けていると思うのです。

 最近では、看護婦さんが診察に先立って問診を取る医療機関も増えてきました。そのこと自体は好ましいやり方と思います。至急に見てあげる人かどうかを判断することもできますし、先にするべき処置があれば、できるからです。ただし、どんな人が行うかによって逆に相手を傷つけてしまう場合も少なくありません。たとえば、こんな場合です。股の付け根のところに以前から小さなしこりがあって、気になっていたところ、最近、少し大きくなってきたような気がする。押さえるとわずかに痛みもあるようだ。見せるのは恥ずかしいが、今日は会社も休みだし、思い切って診てもらおうと受診した若い女性がいたとします。受付を済ませ、待合室で座っていると、看護婦さんから名前を呼ばれます。返事をして立ち上がると近づいてきて、みんなが座っている待合室でこう尋ねられます。「今日はどうされました? 何を診てもらいたいのですか?」恥ずかしくて答えられません。小さな声で返事をしても大きな声で復唱されます。答え終わっても、その場所にいることができず、隅っこの方で立って待っています。みんなが自分の身体のことを知っていて、こちらを向いて噂しているようで、顔を上げることもできません。帰ってしまおうかという誘惑にも駆られますが、せっかく来たのだからと、自分に言い聞かせ、順番を待ちます。名前を呼ばれ診察室に入ります。そこは、小さなスペースで、診察室とはカーテンで仕切られています。前の患者さんと医師の会話が手に取るように聞こえてきます。再び、立ち去ろうという気になりますが、必死でこらえて待っていると、いよいよ自分の番が来ました。医師は問診票にサーと目を通すと、「股の付け根のしこりか」と呟き、ベッドを指さします。診察室の向こう側、つまり彼女が入ったカーテンと反対側は通路になっており、看護婦さんだけではなく、事務の人も行き来しています。ためらっていると、「早く脱いで出してよ、診ないとわからないでしょ」とせき立てられます。仕方なしに、見せると「こんなの、大したことないよ」と言って、医師は背中を向け、カルテに記録を始めます。

 この話がどのような結末となるか、考えてみてください。心配だったしこりについての情報はほとんど得ることはできませんでした。何度となく味わった屈辱的な扱いで、すっかり落ち込んでしまった彼女は二度と病院なんて行くものかと心の中で誓うでしょう。不安と心配で困った状況にある一人の人間を、医療機関での応対により、さらに痛めつけ、情けない思いを抱かせて帰してしまったのです。彼女の「尊厳」は全く守られていません。ずたずたの状態です。

 カナダで見たリハビリテーション関係の医療者たちの仕事ぶりには、「人間の尊厳」を守る姿勢を強く感じました。もちろん、訪問した施設が優れた評価を得ているところであったためかもしれません。腰から下が麻痺してしまった脊髄損傷という重いケガで入院している方がおられました。こうした方にとって、排泄は一大事です。通常の排尿や排便ができません。そこで、担当のスタッフは、自力で排尿ができなくなってしまって惨めな思いをしている方に、どうすればさらに情けない気持ちにさせるようなことがないようなケアができるかを話し合っていました。自分たちの都合ではなく、その方の身になってのケアのあり方が討議されていたのです。簡単に管は入れないとおっしゃっていました。まず、身体にどのようなことが起こっているかをご本人に分かるまで徹底的に説明します。次に、その状態に対して、どのような補助の方法があるかを紹介します。そして、最終的に、ご本人と話し合ってどのような対策にするか選んで、決めていきます。「治すためだから我慢しろ」というような姿勢はどこにもありません。ある意味では人間としての普通の感覚が生きているとも思います。治療現場では、その感覚が麻痺してしまうのでしょうか?普通の生活なら考えられないようなことが平気で行われています。「尊厳」は人間が人間として敬意を持って対応を受けることによって、守ることができます。

 治療というのは、特殊な場面ではありますが、そのような状況においても、普通の感覚を大切しなければならないことを痛感しました。結局、自分がされたらイヤだと思うことを人にするのはおかしいと思う気持ちを大事にすることでしょう。大いに反省し、また、彼らの対応に感動しました。しかし、考えてみると、「尊厳」が大切となるのは何もヘルスケアの話だけではありません。私たちの日常生活でも、人との関係において、考えなければならないテーマでもあると思います。「人を人として敬意を持って受け入れること」は、縦(上下)の人間関係の中では難しいことです。運動部のように、上は下に対して、指示・命令を下し、下はそれに対して逆らうことができない環境では、あり得ないことかもしれません。上司−部下、患者−医師といった特定の人間関係に限らず、親子、夫婦、友人同士の関係でも、上下ではなく横並びで対等の立場であることから、この「尊厳」の問題は始まるのかもしれません。大きな宿題です。ただでも忙しい現場、厳しい経営環境、それでも、個々の方々の尊厳を守るケアができるのか、プロとしての知恵と工夫が試されている気がします。